人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
For detail, click the above image.

2017年1月31日火曜日

云々 (うんぬん) を 「でんでん」 と読む首相の IQ (知能指数)?





学識の高いある政治評論家 (元外交官、京大出) のブログによれば、安倍首相が国会の答弁中に、渡されたメモの漢字 「云々」 を 「でんでん」と読み上げて、涼しい顔をしていたそうである 。方や、野党議員たちは、突如鳴り出した首相の「でんでん太鼓」に (意味も分からず) ただ神妙に聞き入っていた (NHKテレビでは "生放送中" だったが、大手の新聞は "箝口令" が引かれたごとく、事件について一斉に沈黙!) 。 「笑い話」では済まされない! 首相の国語力自身を含めて「知能指数」(IQ) 全体が疑われるエピソードである。

私は40年以上ずっと海外生活を続けているが、この漢字を 「うんぬん」 と読める国語力をまだ維持している。 と言っても、私は理科系の人間であり、大学入試では、苦手の国語と数学の点数はかなり低かった。 主に、得意の英語/外国語、西洋史、世界地理で、点数を稼いだ記憶がある。

だから、できれば、安倍さんに代って、国会答弁をしてやりたいくらいだ。。。
トランプ大統領と"対決姿勢" を高めるためである。特に、米軍基地を、沖縄からグアム島 (米国の領土内) に移転する交渉を始めたい

 ところで、現在の中国語では、云々 (etc, etc) を 「びんいん」 と発音するそうである。 ひょっとすると、「でんでん」 は、首相の地元 「山口県」に伝わる古い「赤ちゃん言葉」 かもしれない。。。

 驚くなかれ、閣議決定では、云々を "でんでん"  と読んでも可としたにも拘らず、云々にルビ(振り仮名) を付け忘れた (?) 官僚を、即座 「懲戒解雇」 処分にしたそうである。 正に 「人権蹂躪」である! でんでんと読んでも間違いでなければ、振り仮名は不要なはず?  処分を早急に撤回しないと、"でんでん事件" を巡って 「裁判ざた」になる可能性がある。。。

 私の亡父は生前、「Dictionnaire de recherche」 (フランス語で、辞書を引け) というのが口癖だった。 「疑問が浮かべば、先ず辞書で調べろ」 というのが、我が家の教育方針だった。  安倍家に代々伝わる  (「肥えた豚」を育てる) 「甘やかし」 教育とは、だんち (段違い) である!

岩波の「広辞苑」によれば、漢字には、難度に従って、少なくとも 3種類のレベルに区分される。
「教育漢字」は小学6年に必須なもので、約1000字
次に、「常用漢字」(=当用漢字) は (恐らく) 中学3年に必須なもので、約1850字
最後に、「通用漢字」というジャンルがあり、(恐らく高校3年に望ましい) 約2950字。
云 (うん) という漢字は、"通用漢字" の中に収められている。 従って、"云々" が正しく読めれば、「高卒」 レベルの教養を身につけていると判断される。 (大学卒の) 首相にメモを手渡した官僚は、「云々」に "ルビは不要" と判断したのは、極めて自然である。

面白い試みがある。「義務教育」を済ませた有権者を対象に、云々という漢字の読み方についてアンケートをとる。 恐らく、「でんでん」 と読む人は殆んどいないだろう。 従って、「閣議決定は間違い」であることが証明される。言い換えれば、首相を含めて、全閣僚に我が国の行政を担当する資質も常識もない (「高卒」以下=未成年である!) ことが明白になる。 「でんでん解散」は必至である!


事件発生以来一週間ほど経って、ようやく日刊ゲンダイが「政界の恥さらし」事件を取り上げ始めた:  http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/638.html

 日本の首相は、議会 (衆議院の多数派議員) が選出する。 そして、その多数派議員を選出するのは、そもそも 「衆愚」 (馬鹿な有権者たち)である。 従って、首相が馬鹿な元凶は、それを選ぶ多数の有権者の 「馬鹿さ加減」 から来ている米国でも、馬鹿な(教育程度の低い) 極右の有権者たちが、とうとうトランプを大統領に選んだ。英国でも、衆愚がEUからの離脱を選んだ。 目下、世界中の有権者が進化ではなく、"退化" しつつある。 人類もそのうち、マンモスや恐竜のごとく、"絶滅する" 運命にあるのかもしれない。。。

「貧すると鈍する」 という言葉がある。 実は、この言葉は間違いであると私は思う。 
「富むと鈍する」が正しい。何故か、その理由を"科学的"に説明しよう。 

敗戦後、日本社会は次第に豊かになった。日々の食事を心配する人々の数が激減した。

そして、メタボや肥満人口が急速に増えた。メタボや肥満は、悪玉キナーゼ 「PAK」 の異常な活性化に伴う。 PAKが異常に活性化すると、癌を含めて、様々な難病が発症する。 
その一つが 「頭脳の軟化」 である。 言い換えれば、「IQの低下」である。 
日本は今、「一億総馬鹿」になりつつある。 つまり、衆愚が激増している。 米国でも同様である。 英国を含めて欧米でも「衆愚」が増えつつある。
 

しかし、その"対策" はある。「腹八分目」と「適度の運動」をすれば、PAKレベルは下がって、体重が減り、頭脳が冴えるよう になる。 あるいは"PAK遮断剤" であるプロポリスやホップなどを常食しても、IQが高まり、「先見の明」のある政治家を選出できる頭脳を回復することができよう。 つまり 「PAK革命」 (人類の進化) を達成することができる!  PAK遮断は、「健康長寿の鍵」でもある。

今から丁度50年前、我々の年代が「安田講堂での最後」の卒業式を迎えた。その折、経済学者の大河内一男総長が有名な言葉を式辞の原稿に残した。 「肥った豚になるより、痩せたソクラテスになれ!」。 「人類の進化」を期待した言葉である。 翌年、安田講堂は学園紛争のため、学生たちに占拠され、以後、安田講堂での卒業式は廃止になった。 「痩せたソクラテス」は紛争の責任をとって辞職し、後任に 「肥った豚」 が就任した。

 最後に、私の個人的な意見を述べさせて頂ければ、「痩せたソクラテス」である天皇を、首相に抜擢した方が、日本はずっと発展すると思う。。。 憲法を改正して、天皇家にも投票権ばかりではなく 「被選挙権」 を与えれば、私の突拍子もない 「夢」はすぐ実現する可能性がある。。

 目下、「生前退位」の問題を巡って、「鳩派」の天皇と「鷹派」の安倍さんの間で、対決が水面下で続いている。この問題は来たる「次世代」を考慮しての問題でもある。 一代限りの問題ではない!  子孫を持たぬ安倍家と子孫2代を持つ天皇家との争いでもある。 私に言わせてもらえば、この勝負は自ずから 「資質」と「品格」 で決着が着くだろう。。。

2017年1月17日火曜日

映画 「こころに剣士を」 : 日本でも 昨年末に公開、 沖縄でも上映中!

http://www.startheaters.jp/recommend.html?movie_category_code=4
http://cinetri.jp/interview/fencer_haro/

バルト3国 (リトワニア、ラトビア、エストニア) は戦争中、ナチス独の占領下にあった。戦後はずっとソ連の占領下にあったが、1990年代初期にベルリンの壁が崩壊、ソ連も解体すると共に、バルト3国は遂に、念願の独立を勝ちえた。 琉球 (沖縄) も戦前戦後、日本や米国に占領され続けている。。。
私はつい最近、メルボルンの映画館で、(事実に基づいて、フィンランド、エストニア、独によって共同制作された) この映画を観て、大いに感動を受けた。

戦後間もなく (1950年代初め)、 エストニア出身のフェンシングの元チャンピオンが、ソ連占領下の故郷の田舎町にひっそり戻ってきて、ある小さな学校の体育教師になった。 ある日、体育館でフェンシングの練習を独りでしていると、ある女生徒 (マルタ)から、「私にもフェンシングを教えてくれませんか? 」と頼まれた。 それがきっかけで、希望する生徒たち( 数十人) を集めて、放課後、フェンシングの練習授業を始めたが、学校の教頭はそれを快く思っていない。 フェンシング倶楽部をつぶそうとした石頭の教頭に、生徒たちの父兄が強く抵抗したからである。

さて、ある日、レニングラードで全ソ連の学校対抗フェンシングトーナメントが開催されることを、生徒たちが知ったが、フェンシングの教師は、何故か、その選手権大会に参加するのを渋った。 実は、レニングラードにいる昔のフェンシング仲間から、「レニングラードには絶対に戻ってくるな」という警告を受けていた。 彼がソ連の秘密警察「KGB」に狙われていたからである。 その秘密を、教頭がかぎつけ始めた。 しかしながら、生徒たちの夢を潰すわけにはいかないことを悟り、体育教師は敢えて、3人の正選手とマルタを補欠に選んで、レニングラードに出発する。駅頭で、別れを惜しんで、彼の恋人(同じ学校の女性教師)が お弁当を作って、見送りに来た。 その時、彼女は、まさか彼との再会が2-3年にも長引くことを、夢にも予想していなかった。 独裁者ジョセフ=スターリンが1953年に死亡した直後、シベリアに流刑されていた多くの政治犯などが釈放された。お蔭で、彼も故国の学校の生徒や恋人と、ついに再会を楽しむことができた。

さて、この "映画の圧巻" は、補欠に選ばれた小柄なマルタ嬢の大活躍。ロシアのエリート校を代表する長身の男子選手を相手に決勝戦に挑む。その結果は如何に?  

私は個人的に、この映画を "沖縄" の人々、特に子供たちに観せたい。 このフェンシング教師は、子供たちに「独立精神」を芽生えさせようとしたのだ。彼らが将来、大人になったときに、故国エストニアの独立を、自らの手で勝ち取れるように。 この映画は、スイスの英雄 「ウイリアム=テル」 の話に酷似している。15-16世紀に、スイスはオーストリア=ハンガリー帝国の圧政から独立を勝ちえた。 そして、「歴史は何度も繰り返す! 」

2017年1月5日木曜日

高村光太郎の詩 「道程」 : その全文!

私は詩の理解が余り得意ではないと白状した。 しかしながら、好きな詩も幾つかある。 「道程」 として知られている短い詩もその一つである。 実は、(あるブログによれば) この詩は、初出のときは、かなり長文な詩だったそうである。 最終的に、「最後の一小節」だけを切り取って、作品として残されている。 そこで、参考のため、全文をここで紹介する。 内容は、けっこう過激で爆弾 濃厚である。

光太郎は、怒涛の「明治大正昭和3期」を駆け巡った 「ドンキホーテ」 の一人だった。そして、PAK依存性の難病 (統合失調症) の床につく愛妻「知恵子」を最後まで守り続け、「知恵子抄」の完成に至る。

「高村光太郎全集 第十九巻」 筑摩書房 より

『道程』

どこかに通じている大道(だいどう)を僕は歩いているのじゃない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ

だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何という曲がりくねり
迷い まよった道だろう

自堕落(じだらく)に消え 滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道
ふり返ってみると
自分の道は 戦慄(せんりつ)に値する

支離滅裂(しりめつれつ)な
また むざんなこの光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだろう

それだのに
やっぱり これが生命(いのち)に導く道だった
そして僕は ここまで来てしまった
このさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味を はっきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻(まわ)しては 目をはじき
もう此処(ここ)と思うところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ

これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切ったありがたさを 僕はしみじみと思った
どんな時にも 自然の手を離さなかった僕は
とうとう自分をつかまえたのだ

丁度そのとき 事態は一変した
にわかに眼前にあるものは 光を放射し
空も地面も 沸く(わく)様に動き出した

そのまに
自然は微笑をのこして 僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そしてその気魄(きはく)が 宇宙に充ちみちた

驚いている僕の魂は
いきなり「歩け」という声につらぬかれた
僕は 武者ぶるいをした
僕は 子供の使命を全身に感じた

子供の使命!
僕の肩は重くなった
そして 僕はもう たよる手が無くなった
無意識に たよっていた手が無くなった
ただ この宇宙に充ちている父を信じて
自分の全身をなげうつのだ

僕は はじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は 心を集めて父の胸にふれた

すると
僕の足は ひとりでに動き出した
不思議に僕は ある自憑(じひょう)の境を得た
僕は どう行こうとも思わない
どの道をとろうとも思わない

僕の前には広漠(こうばく)とした 岩疊(がんじょう)な一面の風景がひろがっ
ている
その間に花が咲き 水が流れている
石があり 絶壁(ぜっぺき)がある
それがみないきいきとしている
僕はただ あの不思議な自憑(じひょう)の督促(とくそく)のままに歩いてゆく


しかし 四方は気味の悪いほど静かだ
恐ろしい世界の果てへ 行ってしまうのかと思うときもある
寂しさは つんぼのように苦しいものだ
僕は その時また父にいのる
父はその風景の間に わずかながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を 僕に見せ
てくれる

同属を喜ぶ人間の性に 僕はふるえ立つ
声をあげて祝福を伝える
そして あの永遠の地平線を前にして 胸のすくほど深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従って
四方の風景は その部分を明らかに僕に示す

生育のいい草の陰に 小さい人間のうじゃうじゃ はいまわって居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類というものの一部分だ
しかし人類は 無駄なものを棄て(すて)腐(くさ)らしても惜(お)しまない

人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば
人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類のため 人間を沢山つくるのだ

腐るものは腐れ
自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ 彼等にかまっていられない
もっと この風景に養(やしな)われ 育(はぐく)まれて
自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いた気を 燃やしているのだ

ああ
人類の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓(ひら)いて行かねばならないのだ

歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため

2017年1月4日水曜日

1972年作の名画 「ラ=マンチャの男」 (ドンキホーテ)

この映画 「ドンキホーテ」 は1972年に博士号を取得した直後、大学時代の恋人と一緒に、有楽町で待ち合わせて、観た (昔懐かしい) 思い出の作品である。 Peter O'Toole が演じる老騎士が「正義のために孤軍奮闘する」場面が極めて印象的だった。

さて、私のランデブーの結果は?  映画の主人公のごとく、結局、恋人にふられた。 彼女は詩人に嫁いでしまった。 詩がほとんど理解できない私は、今でも独身で、(サンチョ=パンザ役を随えて) 科学の世界で、「見果てぬ夢」 を追い続けている。

 ドンキホーテはいつの時代にも存在するようだ。 そういう意味において、この作品は「 恒久的な価値」があると、私は思っている。

映画を観たのは、渡米の前年だった。結局、海外でずっと40年以上、研究生活 (冒険) を続ける勇気を私に与えてくれた。  ドンキホーテよ、ありがとう!  

 つい最近、この映画のビデオをamazon.co.jp から安く入手した。 新しい恋人と一緒に、この映画を再び観賞できる日を楽しみにしている。。。

 彼女はまだこの名画を観たことがないそうである。"松本幸四郎が演じるミュージカル版"は知っているそうだが、不思議にも「元の名画」の存在を知らなかったそうだ。将来、スペインの首都マドリードの郊外にある「ラ=マンチャの村」を一緒に訪ねようという計画も出つつある。

 最近、メルボルンの我が自宅で、白黒のMGM名画 「Song of Love」 (ビデオ) を彼女と一緒に楽しんだ。 主人公クララ=シューマン(ピアニスト) を演じるキャスリン=ヘップバーンと、その若い弟子 (ヨハン-ブラームス) を演じるロバート=ウオーカーの演技が光った。 ヘップバーンが演奏する 「トロイメライ」 (子供の情景、ロバート=シューマン作曲) が画面に甘く悲しく響きわたる。。