http://mainichi.jp/select/today/news/20080806k0000m040146000c.html
太平洋戦争の末期、日本が降服寸前になった1945年の真夏、8月6日と9日
に、広島と長崎にそれぞれ、敵国米国の大統領トルーマンの命令に従い、原爆が
投下され、30万以上の市民が瞬時に昇天した。この史上初の原爆を製造した米
英の科学者、エンジニア、米国軍人からなる膨大なチーム、いわゆる「マンハッ
タン計画」チームの中には、12万人以上の男性に混じって、数百人の女性も参
加していたことが、最近次第に明るみに出つつある。その女性の中に、二人の若
いトップ物理学者がいた。レオナ・マーシャル(1919年生まれ)とジョアン・
ヒントン(1921年生まれ)のエリート物理学者の卵である。2人とも、ノー
ベル物理学賞を1938年にもらった直後、米国に亡命したイタリア人、エンリ
コ・フェルミの弟子(院生)だった。フェルミは中性子の発見者で、「マンハッ
タン計画」」の第一段階、(中性子をウラニウムに照射することによって生じる)
核分裂反応に基づく史上初の原子炉の開発をシカゴ大学で指揮した。レオナもジョ
アンもこの極秘チームの正規メンバー(約100 名)として「白いバッジ」を
胸につけて参加できたわずか2人の女性科学者だった。このバッジ保持者には、
この原子炉および原爆開発に必要なあらゆる機密に接することが許可されていた。
1942年12月にとうとう原子炉の開発に成功したのち、チームは2種類の原
爆の開発、さらに製造に取り掛かかった。1つは(広島に投下された)ウラニウ
ム弾、もう1つは(長崎に投下された)プルトニウム弾である。レオナはプルト
ニウム弾の開発のため、ワシントン州の核研究所に派遺された。ジョアンはウラ
ニウム弾の開発のため、ニューメキシコ州ロスアラモスの砂漠に建設された原爆
研究所に派遺された。1945年7月16日に、最初の原爆(ウラニウム弾)の
実験がその砂漠の奥で極秘に行なわれ、ロバート・オッペンハイマー所長(いわ
ゆる「原爆の父」)以下、ジョアンを含めて限られた職員たちや軍幹部がその歴
史的な実験に立ち会った。実験は無事成功した。実験成功の報が直ちに、暗号で、
(既に無条件降服した)敗戦国ドイツのポツダム(首都ベルリンの郊外)で戦後
処理に関する重要な会談をしていたトルーマン大統領に伝えられた。彼はソ連の
スターリン首相と英国のチャーチル首相と共に、「まだ降服していない最後の敵
である日本を、どう料理するか」相談していた。核実験成功の報を聞いたトルー
マンは秘かにニタリとした。
トルーマンは戦争末期までフランクリン・ルーズベルト大統領(FDR)の副大
統領だったが、ドイツ降服直前の1945年4月12日にFDRが急死したので、
急きょトルー マンが棚ぼた式に大統領に就任した。これが史上最大の悲劇を呼ぶ
ことになった。 ソ連のスターリンに軽く新参者扱いされたトルーマンは、男を上
げるために、原 爆を瀕死の日本に落として、その破壊力を見せしめ、スターリン
の東欧(および極東)への進出を牽制しようと図った。 そこで、日本の降服を意
図的に遅らそうと画策した(降参した敵に、原爆は落すわけにはいかないからだ!)。
ポツダム宣言で、日本政府に、降服の条件として「天皇制廃止」を要求した。日
本がその条件を飲めないことを承知の上で。案の上、愚かな日本政府は、そのポ
ツダム宣言を拒否し、降服を遅らした。そのおかげで、その後2週間以内に、
「マンハッタン計画」チームは昼夜をかけて、広島用と長崎用の2種類の(実戦
用)原爆を緊急に準備することができた。トルーマンは、スターリンがFDRと
の密約通り、8月7日頃(ドイツ降服から3か月後)に、日ソ不可侵同盟を破棄
し、日本に宣戦布告し満州にを占領することを周知していた。従って、最初の原
爆投下日はそれ以前(遅くとも8月6日)である必要があった。というのは、日
本側、特に満州を占領していた関東軍が最も恐れていたのは、無敵のソ連軍の参
戦だったからだ。ソ連が参戦したら、日本の降服は歴然としていたからだ。その
以前に米国は原爆を使用しなければならなかった。
さて、米国政府の「マンハッタン計画」の元来の最大目標は、欧州で戦争を始め
たヒットラーのナチスドイツが原爆を開発し、英米などの連合国に対して使用す
る前に、米国で原爆を急いで開発して、ドイツを牽制/威嚇することにあった。
しかしながら、実際にはドイツの原爆開発は失敗に終わり、米国が原爆を開発す
る前に、(1945年5月初めに)とうとう降服してしまった。従って、ドイツ
降服あるいは米国による最初の原爆実験が成功した7月16日時点で、計画を中
止するのが本来の筋だった。少なくとも米国政府のFDRに、アインシュタインと共に、マ
ンハッタン計画を提案したハンガリー出身のユダヤ系原子物理学者レオ・シラー
ドは、そう考えた。そこで、トルーマン宛てに、日本への原爆投下をせぬよう訴
えて、シラードが嘆願書を草稿した 。彼と共にシカゴ大学で研究していた同僚で
良心的な70名の科学者(数名の女性を含めて)から署名を得たが、その嘆願書
はトルーマンや軍部によって全く無視され た。こうして、ヒロシマ・ナガサキに
「生き地獄」が発生した。
この嘆願書に、シラードの同僚だったレオナは署名しなかった。「日本に原爆を
使用することが、日本の降服を早め、米軍将兵の犠牲を最小限に抑えることがで
きる」という米国政府の宣伝に(生涯)洗脳されていたからだ。ジョアンも嘆願
書には署名できなかった。原爆製造の本拠地ロスアラモスには、嘆願書の回覧が
所長オッペンハイマーの手によって阻止されたからだ。だから、ジョアンは嘆願
書の存在を、原爆投下後に初めて知った。そして、米国政府(トルーマン)に対
して、シラードらと共に、広島や長崎への理不尽な原爆使用に強く抗議した。
さて、この2人のエリート女性科学者は、戦後どんなキャリアを歩んだだろうか?
ジョアン・ヒントン
自分たちの手で製造したあの2発の原爆が広島と長崎の人々(殆んど大部分は、
多数の罪なき子供たちを含めた非戦闘員の老若男女)を無差別的に大量殺りくし
たという世界中を驚愕させたニュースは、ジョアン自身の魂を強烈に打ちのめし
た。長い苦悩の末、ジョアンはロスアラモスのあの「悪魔の研究所」をまず立ち
去り、進歩的な両親(セバスチャンとカルメリータ)や兄ウイリアム(愛称ビル)
の住むシカゴにある実家に戻り、自分が今後とるべき道について相談した。ビル
はハーバード大学やコーネル大学で農業技術を学んだ。そして、1937年に日
本で、しばらく新聞記者に従事したのち、日中戦争勃発直後、中国大陸に渡り、
毛沢東指導下の共産党による解放区で、農村の土地改革運動に参加し、その見聞
を綴って「翻身」という本を1966年に出版した。その解放区には、ビルの親
友でアメリカ人のシドニー・シャピロやアーウイン・エングスト(酪農専門家で、
将来ジョアンの夫になるべき人物、1918ー2003)などが働いていた。そ
こで、ジョアンは少女時代からの夢の全てだった科学や物理学ばかりではなく、
愛する母国アメリカともきっぱり縁を切り、戦後まもない1948年に、単身で
中国大陸の上海に渡ってしまった。解放区で中国の貧農たちを助ける仕事を始め
るためだった。
しかしながら、当時、大陸はまだ内戦の最中だった。(米国がバックアップする)
将介石の牛耳る保守的な国民党勢力と (ソ連が後押しする) 毛沢東を指導者とす
る共産党(人民解放軍)との間で、戦前から続く長い戦いが中国全土で展開して
いた。ジョアンはシャピロの助けで、上海から (突然米国内から消息を絶った
「幻の原子物理学者」ジョアンを追跡する)米国のFBIの手が届かない 延安、
さらに (中ソ国境に近い) 内モンゴールの奥地に移住し、エングストと一緒に酪
農を始め、農機具を作ったり、家畜の飼育法の改良に尽くした。その後、ジョア
ン(中国名、寒春)は同僚のエングスト(中国名、陽早)と結婚し、3人の子供
(息子のフレッドとビル、娘のカレン)を産む。そして、子供たちがチーンエイ
ジャーになった頃、北京郊外にある北京農工機械農事試験所に転勤した。200
3年に夫アーウインが85歳で他界したが、ジョアンは現在(2008年)でも、
その北京にある試験所で酪農を続けながら、独りで簡素な生活を営んでいる。
戦後数年間、米国から姿を消して「消息不明の物理学者」となっていたジョアン
は、1951年(朝鮮戦争の勃発直後)に突然、内モンゴール奥地から、全米科
学者連盟宛てに、原水爆の撤廃や反戦を訴える手紙を送り、FBI当局を仰天さ
せた。翌年には、ジョアンは北京で開催された世界平和会議に出席し、原爆製造
に関与した科学者の一員として「日本代表団への声明文」を発表した(彼女は、
なんと長男フレッドを、この会議開催中に出産)。その中で、あの恐ろしい大量
殺りく兵器の製造に手を染めた事実を深く恥じていることを表明すると共に、こ
んな忌まわしいことが再発せぬよう、原水爆や細菌兵器の開発に従事している世
界中の科学者たちに反省を訴えた。その後もジョアンは、世界平和をめざす反戦
/反核運動を今日まで粘り強く続けている。
さて、2007年の夏に我々は、パール・バック著の小説「Command the Morning」
(1959年)の邦訳「神の火を制御せよ」を初めて出版する機会を得た。この
小説は、「マンハッタン計画」という史実に基づいて、原爆を作った人々の情熱
と葛藤を、ロマンスを織り混ぜて描いた「反核」作品である。この作品に登場する
ヒロインは、ジェーン・アールという若い物理学者である。小説中で、ジェーンは
フェルミの弟子で、原子炉開発や原爆製造に従事するが、原爆が降服寸前の日本へ
投下されるのを予め知るや、原爆使用の中止を訴える70名の科学者による「嘆願
書」に署名する。が、それは米国政府や軍部に無視され、広島・長崎の悲劇を産む。
ジェーンは科学に幻滅し、母国アメリカを捨て、彼女の生まれ故郷インドのカシ
ミールに帰る。
もちろん、ジェーンは架空の人物であるが、若い物理学者ジョアンやレオナ、お
よび(核分裂反応の発見に貴重な貢献をした)原子物理学の大家リーゼ・マイト
ナーや著者であるノーベル賞作家パール・バック自身など数名の実在女性を一部
モデルにして小説化したように、私には思えてならなかった。特に金髪で乗馬が
得意なジョアンとジェーンには、お互いに類似点がすこぶる多い。そして、ジョ
アンの上司フェルミと著者は、同じ年にストックホルムでノーベル賞をもらって
以来、非常に親しい間柄だった。従って、著者が彼の弟子であるジョアンやレオ
ナの存在について知らないはずはなかった。
そんな話を偶々、私が昨年の夏米国ボルチモアに滞在中、北京出身の神経生化学
者(羅 遠教授)に話したところ、
「北京に住むジョアンさんは、私の親友ですよ。ジョアンさんの娘カレンと私は、
北京の大学でずっとルームメートだったわ」
という驚くべき返事が返ってきた。世間とはずいぶん狭いものである。
ジョアンの息子2人は中国で中学を卒業後、米国で高等教育を受け、その後ずっ
と米国で教師などの仕事をしている。娘カレンは北京の大学を卒業後、米国、豪
州、北欧などで研究生活を終えたのち、フランスのパリなどで療養生活をしてい
るという。早速、ジョアンやカレンの電子メール・アドレスを手に入れ、私は文
通を始めた。そして、今年の8月の広島や長崎の原爆慰霊祭の日に間に合うよう、
ジョアンさんを日本へ初めて招待する決心をした。やや老弱(87歳近く、旅行
に車椅子が必要)のジョアンさんには、米国から次男のビルがはるばる付添いで
来ることになり、ジョアンさんと既に面識のある通訳のベテラン小池晴子氏に広
島や長崎への案内を依頼した。ジョアンさんに、現地の被爆者たちと直接「魂の
和解」ができる機会を与えるためである。
母子が被曝地の訪問を無事終え、(五輪開催中の)北京に戻る直前に、東京の六本
木にある宿舎(国際文化会館)で、私は「伝説の人」ジョアンさんと次男ビルに
初めて会って、大変面白い話を聞いた。兄ビルと同様、ジョアンさんは学生時代、
スキー(特に、大回転や滑降)の達人だった。1944年にイタリアで開催予定
だった冬季五輪の米国代表選手に選ばれたが、戦争激化のため五輪がとうとう中
止になっってしまったという。そこで、戦争中は、原子物理学に彼女の情熱と全
エネルギーを注ぐ決心をしたそうである。彼女は新しい時代を背負うべき「文武
両道」に秀でたユニークな女性だった。
最後に、ジョアンさんから我々は意外な事実を知らされた。
「原爆実験直前に、放射能の恐ろしさを直に知らされた。ロス・アラモスで当時、
研究者仲間が2名、事故で被爆して死んだ。一人は被爆直後に、もう一人は
1ヶ月後に死んだ。私は後者を病院へ連れて行って看病した」。
小説中に登場するジェーンも、被爆した若い同僚ディックを病院へ運んで、彼を死ぬ
まで看病し、世紀の原爆実験にとうとう立ち会えなかった。しかしながら、こんな
恐ろしい事故があったことは、いまだにどこにも公表されていない。従って、被曝死は
著者パール・バックの純然たる「創作」だと信じられていた。
「ほとんどの人がこの事故の事実を知らない。極秘裏に処理されたからだ」
とジョアンさんが説明してくれた。
バック女史は、恐らく親友であるフェルミ夫妻から、この事故の詳細について、秘かに
聞くチャンスを得たに違いない。 だから、日に日に蝕まれていく被爆者の病状について、
あのように真に迫る描写ができたのだろう。私を含めて多くの読者にとって、被曝者の
臨終を看取るジェーンの姿が、(数少なくない日本人を親友に持つ)作者自身の
ヒューマニズムを最も如実に表現しているように思える。
レオナ・マーシャル (1919ー1986)
コロンビア大学教授で中性子研究の大家だったフェルミは、「マンハッタン計画」
の一環として、原子炉の雛形に関する特許をもっているレオ・シラードと一緒に
史上初の核分裂連鎖反応による原子炉を開発するために、自分の若い弟子である
レオナとジョアンを助手として引き連れて、シカゴ大学の核研究所(表向きは
「冶金研究所」と呼ばれていた)にやってきた。やがて、レオナは、レオの部下
であるジョン・マーシャルと結婚し、夫と共にウラニウム(ウラン)を使う原子
炉完成の一助になる。1943年にシカゴ大学で博士号(量子物理学)を取得後、
ワシントン州の核研究所で、プルトニウムを使った原子炉の完成をめざす
研究に従事した。戦後もシカゴ大学やプリンストン大学で原子物理学研究を続け
るが、1966年に夫ジョンと離婚後まもなく、レオナはノーベル賞化学者フラ
ンク・リビーと再婚を果たす。「原爆の父」オッペンハイマーは広島と長崎に悲
劇を招いたことを深く反省し、1950年代初頭に開始された同僚エドワード・
テラー(「水爆の父」、ハンガリー出身の原子物理学者で「マンハッタン計画に
も参画)による水爆の開発に強く反対し、とうとう失脚したが、レオナは水爆開
発をも支持し、出世街道を走り続けた。1979年に教授を退職する際に、レオ
ナはやや軽薄な自伝「ウラン研究者」を出版する。ジョアンとは対照的に、レオ
ナは生涯、原水爆の製造、使用を弁護し続けた「タカ派」だった。従って、パー
ル・バックの小説に登場するジェーンの「ハト派」(ヒューマニズム溢れる)アプローチ
とは全く相入れない立場にあった。
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