大学卒業 (1960年安保反対闘争) 直前、就職活動を (一生に) 一度だけしたという。書類審査ではパスしたが、面接では不合格。理由は、試験官に「タイプはできますか?」と問われ、「ノー」と答えたそうである。 「それでは、一体何ができますか?」と問われ、「数ケ月、会社に勤めれば、自ずから何ができるか分かるでしょう」と答えたという。
結局、イタリヤへの遊学を決意、ローマに永住して、とうとう作家で大成功した。 フローレンス大学に勤務していたイタリア人医師 (シモーネ) と結婚し、息子 (アントニオ) を産むが、夫とは後に離婚し、独身ママで息子を立派な作家に育て上げる。
2013年の東北大震災後 、評論「日本人へ: 危機からの脱出編」(文春新書) を出版し、"辛口" に日本の復興を激励したそうである。進歩的な平和主義者 (哲学者) であった"安倍能成 " (安倍普三とは「無縁」!) が院長を務めていた学習院で、「やせたソクラテス」などの古典哲学を学んだはずの塩野さんは、1937年6月生まれの (比較的進歩的な) 小渕恵三首相 (早稲田卒) とは親しかったそうだが、「太った豚 」(安倍総理) の軍国主義的な政策には、かなり批判的であったと推察される。
ボブ=ケネディー司法長官と小渕恵三との出会い:
小渕恵三 (25) は1963年1月、独りで世界旅行に出発。当時、アメリカ統治下にあった沖縄から、台湾、タイ、パキスタン、インド、セイロン(現スリランカ)とアジアをめぐり、中東、アフリカ、ヨーロッパから北米、そして南米と、訪れた国は38カ国におよび、9カ月間の大旅行になった。
旅のハイライトは、ワシントンでのボブ=ケネディ司法長官との会見。実は、前年の2月、ボブ=ケネディが来日した際、早稲田大学の大隈講堂での講演を聞いた小渕青年は、そのときの感激を、長官宛ての手紙にしたためた。そして、長官秘書から電話がかかってきた。「長官が会うそうです。司法省に来てください」。翌日、司法省を訪れた小渕青年は、ケネディ司法長官から「私の講演を聴いてくれてありがとう。これからは君たちの時代だ。政治家になったら、ワシントンで会おう」と温かく歓迎され、兄のジョン=ケネディの大統領当選を記念したネクタイピンまでプレゼントされた。
そのフランクな態度に感動した小渕青年は、「政治家になっても、分けへだてなく誰にでも会おう」と決意した。こうした経験が政治家・小渕の原点になっていた。丁度同じ頃、塩野女史 (25) はイタリアへの独り旅 (武者修行) を始めた。。(私の推察では) これは「単なる偶然」ではなさそうである。高田馬場と目白は山手線で隣駅同士!
松山中学時代から英語が得意だった安倍能成は (家庭の事情で) 中卒後一年間、母校の英語教師を勤めて家計を助けた。その後、一高に進学し、東大文学部時代には、「一中」(「日比谷」の前身) 出身の大作家「夏目漱石」の門下生の一人になった。「坊っちゃん」の舞台になる松山中学は、夏目も安倍も一年間だけ英語教師をしたことがある田舎の「有名」中学である。従って、夏目-安倍-塩野というユニークな人脈が塩野さんを、最終的に「作家の道」へ導いたという可能性がある。
塩野 七生 (著) 「ローマ人の物語 (1) : ローマは一日にして成らず」 (新潮社, 1992) は、2017年の「Amazon ランキング大賞 」に輝く!
J. Cell Signal.
(2018): Commentary
Hiroshi
Maruta, PAK Research Center, Melbourne, Australia.
(「PAK」時代到来: 発見から丸40年)