ヒットラーに牛耳られたドイツと東条に牛耳られた日本はそれぞれ、第二次世界大戦で、米国の物量作戦の前にあえなく無条件降服した。戦後60年以上も経っていながら、どちらの敗戦国にも、勝戦国「米国」の軍事基地がまだ歴然と残っている。
しかしながら、ドイツの地元「欧州」における発言力と、日本の地元「東アジア」(あるいは極東)における発言力には、誰の目にも明白な、極めて歴然とした差が今日みられる。その根本的な由縁は何だろうか?
保有する核兵器の量の差ではない。周辺の英仏や中露とちがって、どちらの敗戦国も核兵器を全くもっていないからだ。
ドイツは終戦と共に、戦争中に犯した過ちをきちんと謝罪し、燐国と清算を済ませている。国旗も国歌も新しくした。
ところが、日本は依然として、(極東や東南アジア諸国の住民たちに対する) 「侵略主義」の象徴である「君が代」と「日の丸」を我々市民全員に強要し、「南京虐殺」や「ビルマ密林での死の行軍」などの戦争犯罪があたかも存在しなかったかのように振る舞い続け、ことを極めて曖昧にしたまま、米国の背後に隠れて、いつも「Me、Too」とあいづちを打っているに過ぎない。
発言力の有無は、当然「発言内容」やその誠意に依存する。日本の外交に説得力も発言力もないのは当たり前だ。
そして、日本の水産会社すらそっぽを向き始めている「商業」捕鯨を「調査」捕鯨と偽って、水産庁と日本捕鯨協会がいくらゴリ押ししても、「良識のある人間」なら誰も、そんな「ウソ」には真面目に耳を傾けようがない。
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