人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2014年3月28日金曜日

闘う医魂: 北里柴三郎の「伝研」を巡る闘い (後半生)

ベルリンのコッホ研究所で、ジフテリアの血清療法などを開発し (世界有数の) 細菌学者になった北里柴三郎 (1853ー1931) は (7年間の) ドイツ留学から帰国後、福沢諭吉の援助により1892年に発足した私立の「伝研 」(伝染病研究所、今日の東大付属の「医科学研究所」の前身) の所長になったが、ライバルの東大医学部長 (青山胤通、細菌学専攻) と内閣書記官長の策略 (結託) によって、自分の伝研(内務省管理)が勝手に文部省の管理下にある東大医学部の付属研究所にされたのを不服に感じ、伝研の所長を潔く辞めて、新たに私立の研究所 (北里研究所) や(福沢諭吉が創立した) 慶応義塾大学に医学部を新設するに至る歴史的な経過をドラマチックに描いた作品である。

実は、青山は昔から北里に恨みを感じていた。殊に1894年ごろ発生した香港ペスト事件で、青山が北里に体面をひどく汚されたからだ。 ペスト調査団のメンバーとして、伝研を代表して北里、東大を代表して青山が香港に派遺された。 青山はペスト患者の屍体解剖をやっているうちに、ペストに感染して、九死一生を得た。 他方、北里はペスト菌を世界に先駆けて発見するという華々しい功績を挙げた。 そこで、青山は北里を何とかして、自分の尻に敷く機会を虎視眈々と狙っていたのだ。 (私学と官学との対立を巡る)この事件を通じて、「九州男児」(熊本出身)北里の激しい 「医魂」 (医学者としての強い反骨精神) が浮き彫りにされている。

さて、この事件が発生したのは、「早稲田」の創立者である大隈重信(1838ー1922)が首相であった時分である。このエピソードから、「慶応」には昔から医学部があるが、ライバルの「早稲田」にはいまだに医学部がない由縁も容易に理解できるだろう。私自身の意見では、慶応の猿真似をしてまで、今さら早稲田が医学部を新設する必要はない! 各々の大学は確固たる独自性を保持すべきである。 「コピペ」は止めろ! 

薬学部出身で、海外で長らく最先端の「創薬」を志す私自身も「文部省嫌い」であり、機会があれば、いつか将来、海外を舞台にした独自の私小説 「薬魂屈せず」を出版してみたいと夢見ている。。。

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