人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2013年6月27日木曜日

The Treacherous Kevin Rudd is the Enemy inside of ALP:
Bullying Julia Gillard out of the PM Office

Is there any hope with this morally "rotten" ALP led by Kevin Rudd?  Definitely None!  We should vote for "Greens", instead of ALP at the next election, giving him the hard lesson that he has indeed no leadership capacity!  Farewell to Ms. Julia Gillard, the PM (2010-2013)!  You have done your best under the very difficult political conditions.  Some days another Aussie woman (perhaps from "Greens") will follow your footstep to manage a similar situation far better, having learned from your own bitter experience.

In my opinion, Julia’s haste caused her premature downfall from the PM office. Her female greater predecessors such as Margaret Thatcher (UK), Helen Clarke (NZ), and Angela Merkel (Germany) managed to stay at their PM office for an almost decade. Why?  They waited for their best chance to come very patiently, in order to lead their party with a great majority. If Julia let Kevin Rudd fail to win the 2010 federal election, it would be almost certain that she would have been easily elected the new leader of ALP, the opposition party, and have kept attacking the PM Tony Abbot of the Coalition for 3 years, who has obviously no brain to make any sustainable government policy. Then at 2013 federal election, Julia could have lead a very popular ALP to have a decisive victory over Tony’s government. The so-called “king-maker”, Bill Shorten made a big (hasty) mistake even twice (in both 2010 and 2013) in an attempt to quick-fix the unpopular (rotten) ALP just before the election. 
Haste makes waste!  That is the lesson that Julia (or any other ambitious politicians) should take.


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ジュリア・ギラード小伝
「英国生まれの赤毛のアン: 豪州の首相への波乱な半生」


有名な小説「赤毛のアン」(原作「Anne of Green Gables」,  村岡花子訳) の主
人公はカナダ生まれのインテリ作家という筋書きだが、この小伝に登場する赤毛
の女性ジュリア・ギラードは、1961年9月29日に英国ウエールズ地方の港
町/保養地バリー(ウエールズ州の首都カーディフから南に11キロ)で次女と
して生まれた。姉のアリソンは(赤毛ではなく父親譲りの)ダークヘアで3歳年
上。さて、元々は貧しい炭鉱町生まれの父親ジョン(1929ー2012)は先
見の明をもつインテリで、精神病院で看護師として働いていた。リベラルで進歩
的な父親は労働党の熱烈な支持者で読書家だった。英国労働党出身のアトリー首
相やウイルソン首相、米国のエレノア・ルーズベルト大統領夫人やジョン・ケネ
ディー大統領をとても尊敬していた。スコットランド系で赤毛の母親モイラは、
救世軍が経営する老人ホームで午後パートタイムの給仕をしていた。彼女もリベ
ラルで読書家だった。従って、両親は娘たちの健康や教育に特に留意していた。

ところが、ジュリアは4歳になったころ、冬季にしばしば重症の喘息や気管支炎
に悩まされ、もっと暖かい所に移転することを医者からしきりに勧められた。そ
こで結局(住み慣れた)生まれ故郷を去る決心をして、1966年2月に、この
一家は(赤道の南側にある)豪州大陸の南岸にあるアデレードという町に向けて
船出した。さて、豪州は6つの独立州と北方自治地区(ノーステリトリー)と首
都キャンベラ地区(ACT)からなる連邦国で、アデレードは南オーストラリア
州の首都(人口約百万人)にあたり、ヴィクトリア州の首都である大都市メルボ
ルン(人口約4百万人)から、北西へ列車で約730キロ(東京ー青森間の距離
に近い)のところにある。アデレード港に到着して間もなく、一家はアデレード
の南郊外にあるキングスウッド、トルーロ街33番地にあるレンガ造りの小じん
まりし家に落ち着いた。

ギラードの家族は移民してから8年後の1974年に、ようやく豪州の市民権(国籍)を
得ることができた。彼らは元来英国人なので、英国国籍を保持したまま、二重国籍を
エンジョイできた。これは豪州やニュージーランドなどを含む英連邦に属する諸国及び
米国やイスラエル、ギリシャなど限られたいくつかの国がもついわゆる特権であった。
日本を始めアジア諸国では、このような「二重国籍」の保持はまだ認められていない。

姉妹ともアデレードの郊外にあるミッチャム小学校に通学した。姉のアリソンは
バリーの小学校からの転校生だったので、当初、新しい豪州の学校にまごついた。
というのは、ウエールズでしゃべっていた英語と豪州でしゃべる英語が、かなり
違っていたからだ。幸い、ジュリアはスムーズに学校の中に溶け込むことができ
た。その後ジュリアはアデレード郊外にある有数な公立アンレー中高学校(創立1
910年) に進学した。16歳になって、ジュリアは母親に向かってこう宣言し
た。
「私は結婚したり、子供を産んだりするのは大嫌いよ。主婦になるより、キャリ
アウーマン(職業婦人)になりたいわ」
学校の授業の中で、ジュリアにとって最も退屈だったのが、家庭科の時間で、料
理や洗濯の仕方を勉強するのがウンザリだった。ある時、うさ晴らしにケーキを
焼く際、(さくらんぼの代わりに)サボテンを練り込んだり、洗濯機の中に袋一
杯のソープの粉を流し込んで、洗濯機からあわぶくがどんどん溢れれ出すのを見
て見ぬ振りをするなどの悪さをして、担任の教師が困惑するのを秘かに喜んだり
したことが何度かあった。家庭科と保健体育が苦手だったが、他の科目でジュリ
アはクラスのトップレベルを保った、彼女も最も好きなクラブ活動は、校内での
弁論大会や他の高校との対抗弁論大会で、競い合うことだった。こうして、ジュ
リアは人前で雄弁を揮う技術を磨いていった。当時は、将来どんな職業につくか、
まだ見当がついていなかったが、弁論大会での経験は、のちに政治家の道をまっ
しぐらに歩む/走ることになる彼女に最大の武器を与えた。

面白いことには、ダークヘアの姉アリソンは、妹ジュリアと全く正反対の性格を
もっていた。人前に出しゃばることを好まず、控え目で、職業婦人ではなく、む
しろ家庭の主婦になることを好んだ。大学を中退後すぐ、好きな男性と同棲し始
め、 23歳で最初の赤ん坊(娘)を産んだ。その娘イエナは現在31歳で、生
物学(バイオテック関係)の博士号をもち、結婚後、最初の赤ん坊が間もなく生
まれる予定である。さらに4年後には最初の息子トムも生まれた。トムは現在2
7歳で電気技師をやっている。こうして、姉は(職歴一目散の)妹ジュリアに代っ
て、ギラード家の子孫を着々と育てていったのである。。。アリソンは現在でも、
長らく住み慣れたアデレーデ郊外のキングスパークの家に息子トムと一緒にひっ
そりと住んでいる。

ジュリアは高卒後、最寄りのアデレード大学に一旦進学したが、母国英国で保守
党のマーガレット・サッチャー女史(1925ー2013)が初の女性首相に就
任するや、俄に発奮して1982年にメルボルンに単身移り住み、豪州で最古の
メルボルン大学の自治会で学生運動をしながら、メルボルン大学の文学部/法学
部を1986年に卒業し、文学士/法学士を取得した。翌年、ジュリアはメルボ
ルンにある労働法を専門に扱う法律事務所「スレーター&ゴードン」に就職し、
そこで10年近く弁護士の仕事をしていた。ジュリアが初めて政界入りしたのは、
1998年の総選挙で、連邦議会(下院)の労働党議員として、ビクトリア州の
選挙区レイラーで初当選を果たした。

さて、1993年12月に、豪州の海を隔てた対岸にあるニュージーランドでは、
労働党(当時野党)に最初の女性党首が既に誕生していた。弱冠43歳のヘレン・
クラーク(1950年生まれ)だった。6年後の1999年12月には、労働党
が総選挙でついに勝利を修め、クラーク女史が史上初の女性首相に就任した。彼
女は首相を連続3期勤めたが、2008年11月の総選挙で労働党がついに敗北
したため、首相の座を国民党の党首ジョン・キーに明け渡した。

2001年にジュリアは当時野党だった労働党の「陰の内閣」に人口問題と移民
問題を扱う大臣に抜擢された。2006年に、ケビン・ラッドが労働党の党首に
就任すると、ジュリアは副党首に抜擢され、教育問題、労働問題を主に担当する
ことになった。更に2007年に労働党が総選挙で勝利して、ケビン・ラッドが
首相に就任すると、ジュリアは遂に女性初の副首相に就任した。

しかしながら、ケビン・ラッドのワンマン振りが内閣内で内紛を呼び、更に総選
挙間際に「炭素税」(炭酸ガス排出税) に怒った鉱業(石炭/石油)や発電
関係の大手企業がALPに対して激しい反対キャンペーンを展開したため、AL
Pの敗北が党内で懸念され始めた。そこで、ビル・ショートンという労働組合の
ボス/キングメーカーのかけ声で、ジュリアが2010年6月に突如、労働党の
党首に選出され、豪州で初めての女性首相に就任した。それはちょうど日本では、
民主党が初めて政権を獲得し、以後3年間、鳩山、管、野田という3人の党首が
首相の座を次々にバトンタッチして、生き延びた時期だった。 ジュリア・ギラー
ドは議会で過半数ギリギリの議席数を保つ労働党と数名の野党(グリーン党や無
所属の)議員を上手に操縦しながら、以後3年間を彼女独りでみごとに全うした。

しかしながら、来たる9月に総選挙を控え、選挙で敗北を懸念する労働党の内紛
が再燃し、特に(彼女に個人的な妬みを抱いている)ケビン・ラッド前首相の意
地汚い画策から、ジュリアは2013年6月27日に党首の座をとうとう失い、
首相を辞任せざるをえなくなる運命になった。もっとも返り咲いたケビン・ラッ
ド首相の政治生命はあと2ー3か月足らずだろう。というのは、ギラード女史を
支持してきた女性有権者の大半は、恐らくラッド首相が率いる腐敗しきった労働
党にはもはや投票しないだろうからである。ラッド首相は来たる9月に予定され
ている総選挙できっと惨敗し、その責任を取って、辞職せざるをえなくなるだろ
う。。。

さて、政界を跡にして、ジュリアは今後将来、一体何を始めるだろうか? 未だ
51歳だから、人生ほんの半ばに過ぎない。(ips研究でノーベル賞を最近も
らった) 山中伸弥教授の有名な言葉を借りれば、マラソンでいえば、未だ折り返
し地点についたばかりである。まさか、朝から晩まで好きな(?) 編み物に明け暮れ
るつもりは毛頭ないだろう。ニュージーランドの前首相ヘレン・クラークは、首
相を辞めた翌年から、すぐニューヨークの国連本部にオフィスを移し、UNDP
(国連開発プログラム)のヘッドに就任し、近い将来、国連の事務総長に抜擢され
るかもしれないという噂も高い。ジュリアも大先輩ヘレンの例に習って、今後は
国際舞台で大いに活躍することが期待されている。