人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2017年2月6日月曜日

我が恩師 「伝ちゃん」: 水野伝一教授

弟子から「伝ちゃん」の愛称で親しまれている我が恩師、水野伝一教授は、私が東大薬学部の学部学生や院生の頃に、「微生物薬品化学」教室を担当していた「先見の明がある」分子生物学者である。当時 (1960-1970年代) の日本の分子生物学界では、「東の横綱」と呼ばれ、「西の横綱」早石修教授 (京大医学部)と、学界を2分していた。鎌倉 (JR大船駅近く) に自宅を構えている。 1919年11月16日生まれだから、既に97歳の高齢である。現在は、自宅の近所にある老人ホームで暮らしているそうである。

実は、十数年前 (80歳の誕生日を祝った頃) から、認知症を患っており、今は、家族の見分けも困難な状態にあると、長女 (芸大出の作曲家)  から、2、3年前にメールをもらったことがある。 子供時代に戻って、毎日無邪気に暮らしているそうである。だから、安倍首相が国会の答弁で、云々 (うんぬん) を 「でんでん」 と読み違えた事件も全く知らないに違いない。 実は、この事件で、ふっと 「伝ちゃん」 を思い出した。

先生は、旧制一中 (日比谷高校の前身)、浦和高校を経て、東大医学部薬学科を卒業後、国立予防衛生研究所 (予研) で化学部長などをへて, 1961年に東大薬学部教授となった。先生の奥さんは、予研時代の研究仲間である。以後20年ほど、本郷キャンパスで、大腸菌をもちいてリボ核酸 (RNA) の代謝の仕組みを分子レベルで解明しながら、 多くの弟子の育成に励んだ後、定年で東大を退官し、帝京大学薬学部の教授に就任し、「癌の免疫療法」をめざして、丸山ワクチンなど LPS 製剤 の開発研究を続けた。 私が先生から直接お世話になったのは、1964年に薬学部に進学してから、1973年に渡米するまでの丸9年間だった。

私にとって最も印象が残っているのは、先生の自由な発想法である。4年生の卒業実習で、先生の教室に配属された。この教室は人気が高く、実は中々入れない。 先生の教室のモットーは、「生物学なら、どんなテーマでよいから、自由に研究をせよ」 というものだった。封建的な東大キャンパスでは珍しく 「自由のふんいき」 があり溢れていた。先生は、実験ノートの記述に厳しかった。「誰にでも追試実験ができるように、ノートを克明にとれ」 と我々にゲキを飛ばした。 先生は研究室全員のために、皆で 「標準実験法」 を編纂し、研究室で実験法を統一すると共に、「我が弟子に与える書」 というユニークなパンフレットを研究室全員に配り、先生の学問に対する考え方を普及した。

先生の主な趣味は、テニスと油絵である。皇居のテニスコートで何度か、明仁皇太子夫妻やのちの天皇夫妻ともテニスを何度か楽しむ機会があった。油絵の趣味は、先生が英国のミルヒルの国立医学研究所に研究留学中に、時の首相 「チャーチル」 の素晴らしい絵の才能に魅せられて、始めたと言われている。 更に、先生は英国留学の際、"希望峰回り" の船で、世界を半周したそうである。 そこで、弟子の私も、先生の真似をして、渡米の折、横浜から「巨大なコンテナ船」で、シアトルまで、9日間の船旅を楽しんだ。渡米の餞別に、先生からコンパス と ウエブスターの「米語辞典」(American English Dictionary) を先生から頂いた。 長い海外生活で、針路と言葉に疑問を持つ時は常に、この2つに相談している。

先生が今後とも、長生きして、百歳を迎えることを心から祈っている。。。

 追記:  去る10月初め、水野先生 (97) が鎌倉の自宅で (老衰のため) 静かに亡くなられたことを知った。多くの愛弟子達と共に、先生のご冥福を心から祈る。

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