人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2008年8月26日火曜日

ベン・ヒルズ著「雅子妃:皇室の女囚(とりこ)」(原題の直訳)を読んで

1993年に、外交官であった大和田雅子が自分のキャリアを捨てて、とうとう皇太子(徳仁、浩宮)の妃(妻)になることを渋々引き受けてから既に15年の歳月が過ぎ、大方の予想通リ、雅子妃は宮内庁や皇室からの締め付けに苦しみ(「子供を産む」以外に、自分本来の才能を発揮したいという願望が通らず)、かなり重症の精神的障害に落ち入って、皇太子妃としての(儀式/形式的な)公務をも全うできない状況にある。豪州のジャーナリスト(ベン・ヒルズ)は2006年に、その経過(皇室の悲劇)を英文の本として出版し、その邦訳を当初、講談社から出版する予定だったが、(それを妨害せんとする)宮内庁と外務省からの圧力に出版社がとうとう屈したため、別の出版社から遅れて出版されたという噂を聞いている。私は海外に35年以上暮らし、特に豪州には20年以上永住しているから、当然のことながら、原書のまま読み、話題になった邦訳には目を通していないから、邦訳の一体どこが問題なのか全然知らない。原書自身の内容に関する限り、それをそのまま邦訳して、重大な問題になるような(日本読者一般の「ひんしゅく」を買うような)箇所など特に見当たらなかった。

強いて言えば、英国出身の著者がかもし出す豪州スタイルの表現が、必ずしも日本人(特に宮内庁や外務省のお偉方)向きでないかもしれない。例えば、原書にはこんなくだりがある。雅子が皇太子からの執拗な求婚を一旦退けて、英国に留学する直前の送別会で、彼女が友人に冗談を言う場面がある。彼女の母親から、こう注意されたという。You have to tighten your loin-cloth (ふんどしを締め直して、ちゃんと勉強しなさいよ)。雅子はその冗談をこう結んだ。Unfortunately, I didn't have one, but I bought one to take to Britain (あいにく、私はふんどしをしていなかったので、英国行きに新調したわ)。 彼女はハーバード大学 (経済学部) 卒のエリート外交官で、外務省から特別派遺されて、英国のオックスフォード大学で国際関係論に関する修士号を取る予定だった。しかしながら、周囲からの期待に反して、雅子は (修士) 論文提出になぜか失敗した。ふんどし(腰巻)の締めが十分でなかったのかもしれない。。。

2年間の英国留学生活を終え、1990年の夏、独身のまま日本に帰国して、彼女はまた東京霞が関の外務省勤務に戻った。ところが1992年の夏になって、意外にも皇太子から再び声がかかった。そのしつこい求婚に、彼女の腰巻がとうとうゆるんでしまったのか、その年末、雅子はとうとう陥落してしまった(求婚を渋々受諾した)。こうして、皇室における雅子の痛ましい悲劇が始まった。母親の忠告をしっかり噛み締めていたら、こんな悲劇は恐らく起こらなかっただろう。。。
あるいは皇太子の約束がちゃんと守られていたら、雅子は美智子妃(現在の皇后)の「二の舞」をせずにすんだかもしれない。「私は、雅子を一生守り続けます」という皇太子の甘い約束は、彼自身の力不足か、因習的(右翼的)な宮内庁の力が強大過ぎたのか、実質的に「反古」になった。この本の著者は、再発した皇室の悲劇を、「出口なき悲劇」と呼んでいる。現状維持のままでは、確かにそうかもしれない。しかしながら、皇太子に(例えば、「明治天皇」のごとき)英知と勇気があれば、この悲劇に終止符を打つことはできるのだ。140年ぶりの「維新」を起こすのだ。この維新は、あの薩摩や長州の浪人たちを必要としない。「皇太子」独りでできる! もし、海外からのバックアップが必要ならば、この維新を喜んで支えようとする同志(浪士)は、豪州のシドニーやメルボルンに永住する我々を含めて世界中に無数いる。。。

彼が皇太子の職(地位)を断念して、敢えて皇室から独立して、愛する妻(雅子)と娘(愛子)と共に、「民間人」として人生を再出発することである。皇太子にも「基本的人権」というものがある。それを自分の家族のために、夫として父親として主張、貫徹する義務と権利がある。「水の研究」よりもずっと重要な問題だ。水や川の研究など誰にでもできる。しかしながら、「雅子」に関する個人的な家庭問題は、夫である彼の決断でしか解決できない。その点を、この機会に、私は皇太子に喚起したい。だいたい、因習的な(世襲制の)「天皇制」というのは、基本的人権の侵害である。人間には生まれながらにして、職業を選択できる自由がある。皇太子や天皇という「象徴」業に就くか否かを、押しつけではなく、本人に選択できる自由があってしかるべきである。それができぬならば、(マッカーサー司令官が「日本占領」のためにでっち上げた)戦後のいわゆる民主的な「天皇」とは、我々国民/庶民の一体何を象徴しているのか、さっぱりわからない。

実質のない儀式に明け暮れる「象徴」業は、やりたい奴(例えば、皇太子の弟)にやらせておけば(譲れば)よい! それがダメなら、新たに「象徴」を公募して、7ー8年という期限つきで、然るべき人格と才能の持ち主を採用すべきだ。ドイツや北欧やアイルランドなどの欧米諸国では、国民による直接投票で「象徴」(儀礼的な大統領)が、実権のある首相とは別箇に、定期的に選出されている。時代によって「ニーズ」がどんどん変遷するにもかかわらず、2600年間(?)も使い古し、苔までうっそうと生えた同一家(華)族にずっと任せておくのは、「時代錯誤」にもほどがある! 21世紀を迎えた日本をさらに飛躍、発展させるためには、時代のニーズ(や庶民の目線)に合った色やスタイルの新鮮なふんどしや腰巻で、我が国の急所を締め直さねばならない、と私は思う。豪州慣れした素朴な表現はやや露骨過ぎて、四角ばって体裁ばかり気にする宮内庁や外務省のお偉方には違和感をもたらすかもしれないが、一般庶民たちには、その言わんとする「本意」が容易につかめると、私は確信して止まない。

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