人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2018年1月19日金曜日

一冊100円の古本「秘話: エベレスト登頂後のヒラリー卿」

実はメルボルン市内のある公立図書館が年に2回ほど、古本を1冊1-2$で安売りする習慣がある。2-3日前に恒例の安売りが始まった。最初に入手した古本は「スチーブ=ジョブ」に関する分厚い伝記だった。ところが、帰宅して本を開いてみて、あっと驚いた。英語版 (原書) ではなかった。ラテン系の訳本だったがフランス語ではない。結局、出版社の住所 (バルセロナ) からスペイン語訳であることが判明してがっくりきた。 幸い、近所にバルセロナから移民してきた家族を見つけたので、その本をプレゼントした。

 翌日に、図書館で別の古本を入手した。今度は英語版だった。「秘話: エベレスト登頂後のヒラリー卿」という表題のニュージーランド (NZ) のジャーナリストが書いた伝記だった。 ヒラリー卿は(登山が大好きな) 私が少年時代からずっと敬愛する「ヒーロー」の 一人である。彼自身が書いた登山記や随想を幾つか読んだことはあるが、他人がヒラリー卿について綴った本は、未だ殆んど読んだことがない。この伝記で、最も面白いと感じたのは、第一章「第一歩」だった。エベレスト登頂前の彼の生い立ちである。

ヒラリー卿 (エドモント) は1919年に、NZの北島オークランド市外で長男として生まれた。弟レックスが一年後に生まれた。 2歳上の姉ジュンは、秀才で英国ロンドンで心理学の修士号を取得し、精神病医になった。 母ガートルートは学校の教師だった。さて、父パーシーは、頑固で変り者だった。 ある意味で、私自身の父に性格が似ていた。パーシーの有名な口癖は「ヒラリー家はヒーローじゃない、戦争に行ったことがないからだ」だった。 実際には父親自身も、エドモントも戦争に参加している。しかしながら、華々しい手柄を立てたというわけではない。父親は、第一次世界大戦に出征したが、悪名高き(悲惨な) 「ゴリポリの戦闘」で頭部を負傷した。息子エドモントも太平洋戦争に空てい部隊として出征したが、ソロモン諸島沖で、飛行機事故にあい、大火傷をして病院にかつぎ込まれた。

実は、父親は除隊後、参戦に反対する平和主義者になり、自宅で養蜂業を営むようになった。そして、太平洋戦争が開始し、徴兵が始まると、徴兵免除願いを長男エドモントのために、(本人には内緒で) 申し出た。 実は、養蜂はNZにとっては、大事な基幹産業なので、養蜂をやっている息子は、徴兵免除の対象になった。ところが、その制度には意外な「落とし穴」があった。家族当たり徴兵免除は「男一人だけ」となっていた。 そこで、弟の徴兵免除を確保するために、兄のエドモントが代わりに、(不本意ながら) 出征する決心をしたのだ。 弟は戦争中4年間、収容所生活を余儀なくされたそうである。だから、ヒラリー卿がエベレスト初登頂に成功以後も、「ヒラリー家はヒーローでない!」と父親は主張し続けたのだ。 その父親の気持は (平和主義の)  私にも痛くわかる。。

さて、前置きはそれくらいにして、(エベレストへの) 第一歩とは、一体何だったのだろうか?  エドモントは空てい部隊でパイロットを志願したが、その才能なしと判定され、道案内人としての訓練を (山岳地帯の南島で) 受け始める。 南島の最高峰はクック山 (海抜 3764m ) だが、その準備訓練として (休暇中に) キャンプ(兵舎) から徒歩32時間もの距離にある海抜2885 mの雪山「タプアエヌク山」の単独行に初めて成功し、登山の醍醐味を味わい始めた。  戦後まもなく、NZ登山クラブに加入し、(雪深い) クック山南壁からの初登頂にも最終的に成功する。これが「エベレストのヒーロー」への序曲になった。

 1953年5月29日正午前、ヒラリー卿と (シェルパ族である) テンジン=ノーゲイが仲良く肩を並べて、世界最高峰 の頂上 (海抜8850 m) に史上初めて立った!  ヒラリー卿がNZに帰国後、最初にしたことは、恋人のルイーザとの結婚だった。しかしながら、決して物事に動じない不屈のヒラリー卿にも、ひとつだけ「弱点」があった。 恋人に直接求婚することだった。彼はルイーザの母親に先ず伺いを立てて、彼女の両親から許可を得てから、本人に求婚したそうである。 結婚してから、間もなく3人の子供が生まれた。 長男ピーターと2人の娘 (サラとベリンダ) だった。 ピーターは成人して登山家になり、少なくとも2回、エベレスト登頂に成功している (2度目は、父親たちのエベレスト征服50周年を記念して、2003年にそれぞれの息子の代が一緒にエベレスト登頂を果たす)。

ヒラリー卿はエベレスト登頂後、  親友になったテンジンと共に、ネパールの貧しいシェルパ族の子供たちのために、学校や橋や病院を建設する事業に専念した。エベレスト登頂中、必要な機材や荷物の運搬や道案内に貢献してくれた、地元ネパールの貧しいシェルパ族の福祉を図る目的で、私財を投じて「ヒマラヤ=トラスト」というNGO (慈善団体) を設立して、ヒラリー卿は生涯に渡って、ネパールを何度も訪れ、シェルパ族に恩返しをし続けた。

その最中のことである。大変な不幸がヒラリー卿の家族を襲った。 1975年3月31日のことである (田部井淳子が女性初のエベレスト登頂に成功する一カ月半前) 。 ヒラリー卿は当時、ネパールのファプルーと呼ばれる小さな村で、病院の建設をやっていた。妻ルイーザと次女ベリンダがネパールから小型のプロペラ機で、首都カトマンズから、この村にヒラリー卿を訪問する途上だった。

ヒラリー卿は到着するはずの家族を乗せた飛行機がいつまで経っても、到着しないので、心配していたところ、突然ヘリコプターが滑走路に降り立ち、元新聞記者で「ヒマラヤ=トラスト」の役員である女性が、ヒラリー卿に近付いた。 彼の「妻と娘は無事ですか?」という問いに、女性は「残念ながら、離陸事故で亡くなられました」と答えた。 以来、ヒラリー卿は絶望感にひしがれ、精神的にも肉体的には、長らく立ち上がれなかった。 それを救ったのは、ジュンという友人 (女性) だった。彼女も1979年頃、夫を飛行機事故で失って未亡人になった。偶然にも、ルイーザとジュンは同年だった (ヒラリー卿の12歳年下) 。  ヒラリー卿の姉の名もジュンだった。 ジュンは年下ながら、気丈な女性で、彼の言わば「姉代わり」をして、彼をどん底から引っぱり上げた。 2人はやがて結婚して、ヒラリー卿が88歳で老衰のため、2008年1月11日に他界するまで、2人3脚で「ヒマラヤ=トラスト」の慈善事業を遂行した。

ヒラリー卿は、当時のNZ首相ヘレン=クラーク (オークランド大学出身の女性労働党党首) の提案により、当然ながら「国葬」にふされた。地元NZばかりではなく、豪州でも国民レベルで、ヒラリー卿の死を悼む催しがもたれた。  彼は、特にNZ国民全体の愛すべき「アイコン」 (象徴的存在) だった。

 ヒラリー卿が他界した翌年に、北島オークランド市近郊で養蜂業を営み、蜂蜜や「Bio 30」などのプロポリスを製造/通販している「マヌカヘルス」の社長 (ケリー=ポール氏) 夫妻の招きにより、私が初めてオークランド郊外にある養蜂場を訪れた折に、「ヒラリー卿記念館」にも訪れ、偉大な登山家の偉業を詳しく学ぶ機会を得た。


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