人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2008年5月16日金曜日

童話「ビルマの竪琴」と著者「竹山道雄」

戦後、米軍による占領下に、小学生の私が最初に観た映画は天然色映画「子鹿物語」だった。若いグレゴリー・ペックが主演で父親役を演じていたという記憶がある。アメリカの開拓時代に、狩りで親を失った子鹿「バンビ」と少年との感動的な友情物語だった。

次に観た作品が白黒映画「ビルマの竪琴」だった。夏休み中(多分、敗戦記念日か「お盆」の頃)、小学校か中学校の校庭で日没後、校庭に張り巡らした白い幕を前に座って皆んで観た記憶がある。敗戦直前のビルマ戦地で、水島上等兵が死んでいった戦友たちの霊を弔うために、僧侶になり竪琴で「埴生の宿」を奏でながら、ビルマの村々を放浪する姿が、もの悲しいメロディーと共に、印象に残った。もっとも詳しい筋は余り憶えていない。

私の母の長兄が東大法学部の学生時代に、学徒出陣で、フィリピンのルソン島へ出征命令を受け、不幸にして間もなくマラリアに感染して、戦わずして戦地で淋しく病死していったことを、母から既に聞いていたので、涙が自ずから頬をつたったのを憶えている。

それからずっと後(ほとんど半世紀後)になって、この映画の原作が、子供向けの童話で、作者がドイツ文学者(東大独文卒)の竹山道雄(1903ー1984)であったことを初めて知って、私は大変驚いた。実は、私の亡父 (1906ー1989)は京大独文出身で、同世代のリベラルな社会主義者だったが、竹山氏について、生前一度もふれたことがなかったからだ(少なくとも、私の記憶には全く残っていない!)。なぜだろうか?

その「謎」を解くために、竹山氏の戦前の経歴を、まずインターネットを介して少し調べてみた。

銀行員の息子として大阪に生まれ、父の転勤に伴い、少年時代の初期(1907ー1913)を、朝鮮半島の京城(ソウル)で過ごす。「一高」を経て、1926年に東京(帝)大独文卒。ドイツ語講師として母校「一高」に勤務。1928年から文部省に派遣されて欧米(ベルリンとパリ)に3年間留学。1931年に帰国し、「一高」の教授となる。戦後、一高が東大教養学部に改組されてからも教授を続け、童話「ビルマの竪琴」を出版したから3年後(1951年)に退官する(以上、フリー百科事典『ウィキペディア』から抜粋し加筆)。

謎を解く重要な鍵の一つは、「満州事変」という日本軍による中国大陸への侵略が開始した1931年以後、ずっと敗戦までの14年間に渡って、竹山氏が一高でドイツ語の講師をしていたことである。その期間(特に、兵員不足になった戦争末期)、少年兵として、自分の教え子である無数の「一高」卒業生たち(数えで19歳以上)が徴兵され学徒出陣で次々と戦地に送られ「無駄死に」するのを、彼は(理由はともあれ、結果として)黙視していたに違いない。なぜなら、もし仮に、学徒出陣(あるいは「侵略戦争」そのもの)に対して、敢えて反対の意志を表明していたら、彼は直ちに教職を失っていただろうから。。。

戦前/戦中、日本帝国(侵略)主義に抵抗して、職を失ったり、投獄されたりしたいわゆる「良心的なインテリ」の生き残りからは、童話「ビルマの竪琴」に対して、主に次のような批判が目につく。加害者責任を直視していない、戦争を感傷的にとらえ、軍国主義への反省はするが、侵略や戦争犯罪のことは忘れて、日本人の死者への鎮魂だけにとどまっている、つまり「反戦文学」として生ぬるい(中途半端)という批判である。

もちろん、子供向けの童話に「加害者責任を問う」内容を盛り込むのは、それほど容易ではなかろう。
水島上等兵の手紙という形で、以下のように表現されているに過ぎない。

「わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです。思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを忘れたからです」

さらに深く掘り下げれば、竹山氏自身は、戦争中に日本政府が犯した戦争犯罪(中国大陸や朝鮮半島や東南アジアへの侵略行為や残虐行為)の深刻さに気づいていなかったようである。だから、中途半端な童話を書き、戦中の(戦地で散った教え子たちに対する)自身の「悔恨」を間接的に表現することに自己満足していたのだろう。何百万の戦没者の遺族には、この原作(童話)や映画は大変好評だったろうが、戦争に反対して自ら体を張って闘い抜いた人々(少数派)からは、余り歓迎されなかったのは、容易に頷ける。もちろん、「ビルマの竪琴」批判は、「少数」意見に過ぎない。もし仮に、これが「多数」意見だったら、あの忌まわしい太平洋戦争など勃発しなかっただろう。

戦後の竹山氏の評論は一貫して、いわゆる「中道的保守路線」で、ソ連や中共の独裁的な社会主義路線に極めて批判的であった。言いかえれば、いわゆる戦後の冷戦中、「反共親米的な戦後の体制を擁護する与党的な立場」を維持した。さらに、彼は1959年(「60年反安保闘争」の前年)に反左翼の雑誌「自由」を創刊して、「保守反動」という有り難くないレッテルを、一部の左翼的インテリから頂戴した。従って、戦後も死ぬまで一貫して、長らく最大野党だった「社会党」の反戦路線を強く支持していた私の亡父とは、肌が全く合わなかったのだろう。恐らく、亡父は同じ「ドイツ文学」という専門分野で活躍し、数多くのドイツ文学や北欧文学の邦訳を残した竹山氏を最も知り尽くしていただけに、(文豪ゲーテやシラー、楽聖ベートーヴェンやシューベルトについて、多くを語ったにもかかわらず)竹山氏については、一言も息子に語るチャンスを失ったのだろう、と今になって私は想像する。

亡父は常に「憲法第9条」を擁護し、戦後の日本(自民党)政府によるアメリカ追従政策、特に日米安保条約、自衛隊による再軍備が将来、再び「侵略戦争」をもたらす危険な「種」になりつつあることを、繰り返し警告していた。もし仮に「憲法第9条」を擁護する支持層が、日本の世論の少数派になってしまったら、戦前のごとく、日本は再び、忌まわしい「侵略戦争」への道を歩み始めることになるだろう。

日本政府(小泉内閣)が積極的に加担したブッシュ政権による「イラク戦争」は、明らかに石油の利権を獲得するがための「侵略戦争」だった(太平洋戦争が、実は満州やビルマに埋蔵する石炭や鉄、インドネシアの石油などの利権を獲得するために開始された戦争であったことに良く醜似している)。この血生臭い「泥沼戦争」は、日本の「太平洋戦争」と同様、誤った理由(口実)に基づいて始められた戦争である。最後に「敗北」を避けることはできないだろう。亡父の言葉を借りれば、「正義は最後に必ず勝利する」からだ。

この言葉を信じぬ者は、戦中の日本人の大半のごとく、時の政府(長い物)にただ巻かれたまま、初めから不正義と戦おうとする努力をせずに、ズルズルと欲の深い侵略戦争という泥沼に引き込まれ、結局は誤った政府のために苦しみ、運が悪ければ「無駄死に」する運命をたどることになる。ある意味で「自業自得」であると言えよう。

天木直人(元レバノン大使)とバラック・オバマ(次期米国大統領候補)は、イラク戦争開始前に、「先見の明」をもって、この泥沼戦争突入に反対し、小泉内閣やブッシュ政権に抗議の意志をはっきり表明している。それを無視した日米英豪(保守)政権の今後払うべき代償は相当大きいだろう。例えば、先ず去る11月の総選挙で、豪州の保守政権が大敗した。英国の労働党政権も、最近の地方選挙で大敗している。日本では、自民党の(小泉ー安倍路線を継承する)福田内閣への支持率が最近、日に日に激減している。米国では、ブッシュ政権を支える共和党支持層が年々激減し、逆に若いオバマ上院議員を大統領候補に推す民主党支持層が急激に増大している。

なお、童話「ビルマの竪琴」が創作された敗戦直後のきっかけ、いきさつ(経過)については、下記のネット欄を参照されたし:

http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_ddce.html

中村徳郎が「ビルマの竪琴」の主人公、水島上等兵のモデルだったという説がある。竹山道雄が一高で教師をしていた時の教え子の一人で、山岳部で活躍し「トクさん」という愛称で仲間から親しまれ、 東大理学部で地理学を専攻した、とても純粋は青年だった。山をこよなく愛した「トクさん」は、かつて北アルプス穂高連峰で遭難死しかけたドイツ人青年、カール・ビルスを夜を徹して救助したことがあった。しかし彼は、そのカールが上等兵としてスターリングラード攻防戦で戦死したことを、知人から知らされる。その翌年、ドイツの親友のあとを追うように、彼自身もフィリピンのレイテ島で戦死(25歳)。侵略戦争に学徒出陣させられ「無駄死に」させるには全く惜しい人物。戦争ほど、多くの貴重な人材と美しい自然を破壊し、無駄にするものはない!

「聞け、わだつみの声」
http://waremoko2006.blog.so-net.ne.jp/2006-11-05-1


戦死した「トクさん」の母親(町医者)の叫び
http://semisigure.harisen.jp/99tennousei/koenakisakebi.htm


続く

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