人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2017年11月12日日曜日

豪州版 「ビクトリア」 と 「メルボルン」 の親密な結び付き

豪州は、6つの州、北方領土 と首都 (キャンベラ) からなっている。その州の一つがビクトリア州である。 この「ビクトリア」の名称は、大英帝国の黄金時代 (19世紀、1837-1901) に君臨していたビクトリア女王に由来する。 ビクトリア州が正式に成立したのは1851年。 同年にバララット (Ballarat) で金鉱が発見され、人口が急激に増加したため、ビクトリア植民地政府が成立した。

さて、ビクトリア州の中心都市 (州都、人口470万人) は 「メルボルン」 であるが、その名称は、ビクトリア女王の相談役を務めたメルボルン首相 (1779-1848) にちなむ。 彼の本名はWilliam Lamb であるが、父親のメルボルン卿が他界した際、その家系を継いでメルボルン卿と改名した。 メルボルン卿は、ホイッグ党首として、2度にわたって、英国の首相を務めた。1835 - 1839 と 1839 - 1841 である。 1837年に、18歳で (未だ独身の) ビクトリアが女王に就任した際、メルボルン首相が女王の相談役に任命された。 以来、ビクトリアとメルボルンの間に親密な関係が生まれた。

さて、1839年に、議会で与党だったホイッグ党が野党のトーリー党に敗れ、メルボルンは首相を辞任し、代わりにトーリー党の党首ピールが首相に就任せんとしたが、ビクトリア女王が、驚くなかれ、 ピール内閣の承認を拒否した!  ピール首相はビクトリア女王の相談役に相応しくなかったからである。(「君主議会」制度下では、内閣の成立は「君主による承認」を必要とする。例えば、日本でも、天皇の承認なしには、内閣は成立しない!)  

そこで、ピール内閣は総辞職して、メルボルン内閣が成立し、メルボルンが女王の相談役 (言わば、父親代り) に再任した。 この第二次メルボルン内閣の期間に、ビクトリア女王の結婚 (婿探し) 問題が 宮廷内で取り沙汰されたが、その際、女王は"恋愛結婚" を主張し、(ある噂によれば) 40歳年上のメルボルンに求婚したという説がある。 メルボルン卿には以前、キャロリンという妻がいたが、有名な詩人バイロン卿と悪名高き情事を起こしたという理由で、妻を離婚したという寂しい過去があった。 勿論、聡明なメルボルン卿はビクトリアの求婚をやんわりと退け、代わりに (ビクトリアと同い年) 従兄のアルバート王子(ドイツ系) を結婚相手に強く推薦した。 1839年にビクトリアとアルバートがめでたく結婚し、9人もの子供が次々に生まれた。

一方、メルボルン卿のホイッグ党は1841年に、再びピール党首の率いるトーリー党に敗れ、メルボルン内閣は総辞職して、下野する。メルボルン卿は以後体調を崩し、7年後に心臓麻痺で、寂しくこの世を去った。 メルボルン卿の死後3年目に、豪州のビクトリア州の州都が 「メルボルン」 と命名された。

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