人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2015年11月30日月曜日

終戦後「アメラジアン」(混血孤児たち) の救済に情熱を傾けた二人の女性:
パール=バック女史 (上巻) と 澤田美喜女史 (下巻)

目下、「アメラジアン」に関する英文古典2冊をまとめて、上下巻として邦訳出版を企画しつつある。上巻は パール=バック女史著 (1966) の対話型式ドキュメンタリー「For Spacious Skies:  Journey in Dialogue」(前述)、下巻はエリザベス=ヘムフィル著 (1980) の「澤田美喜と子供たち (混血孤児)」

実はこの企画の始まりはもう十数年前に遡る。2001年にピーター=コン著の邦訳 「パール=バック伝:  この大地から差別をなくすため」(舞字社) を我々の手で出版して以来、考え続けていた企画であるが、出版を快く引き受けてくれる出版社がなかなか見つからなかった。言わば、「機が熟す」の (=日本のインテリ読者層の成長/円熟) をじっと待っていた次第である。 急がず、徳川家康の「鳴くまで待とうホトトギス」の心境で、ことを進めることが、特に(保守的な) 日本の出版界では非常に肝心である。

不朽の名作「大地」の作者パール=バック女史は、米国国籍であるが、その前半生を中国大陸でずっと過ごした。父親がキリスト教の伝道師だったからである。 従って、幼少の頃から中国文化に深く育くまれ、遺伝的には米国人であるが、文化的には「東洋と西洋の橋渡し」的役割を果たした。 女史の有名な言葉 「ジュラルミンという合金は、元の金属である銅よりもアルミよりも性能がずっと優れている」 が象徴しているように、バイリンガルな混血児たちを貴重な存在として位置付けた最初の西洋人である。女史自身も東洋文化と西洋文化を融合して生まれた貴重な「合金的」存在 (文化的ハイブリッド) だった。

「三菱財閥の創始者」岩崎弥太郎の孫娘として誕生したお転婆娘「美喜」は、幼少の頃から、キリスト教という西洋文化に育れる機会があった。そして、外交官である澤田簾三 (戦後は日本初の国連大使) と結婚以来、"澤田美喜" として、夫の駐在先である海外各地で活躍する機会を得た。 夫妻は三男一女に恵れたが、終戦直前に、三男のステファン (19歳) がインドシナ沖に出征中の海軍巡洋艦の沈没により戦死した。 同じく海軍出征中の長男と次男は辛くも生還できた。

 終戦一年後に、美喜はラジオで、最初のアメラジアン(日米混血児) が誕生したことを知った。 彼女はそのニュースを「日米友好/和解のシンボル」として歓迎した。ところが、2、3週間後に新聞紙上に忌まわしいニュースが次々と報道されるようになった。 鵠沼近くの川にちじれ毛の黒人らしい赤ん坊の死体が浮かんでいたり、青い目の白人らしい赤ん坊の死体が路上に捨てられていた。記事を読んで、美喜は「捨てられた混血孤児たち」のため、何かをせねばならぬことを痛感し始めた。

 4カ月後、美喜は汽車で岐阜駅を通過するあたりで、頭上の網棚から突然、彼女の膝の上に紫色の風呂敷包みがころがり落ちてきた。 彼女がそれを棚に戻そうと立ち上がった瞬間、2人の警官が車内に入ってきて、彼女を制止した。警官は (当時はびこっていた) 「闇米」取締りの最中だった。美喜に風呂敷の中身を見せるように要求した。開けてみると、中から黒人らしい赤ん坊の死体が出てきた。 ビックリ仰天した美喜は警官や周りの乗客に、こう説明し始めた。
「これは私の持ち物ではありません。棚から落ちてきただけです」
警官は彼女が英語の本を読んでいることに気づいた。
「あなたが英語を話せるなら、黒人のボーイフレンドがあるに違いない」
「とんでもない!  どなたか、私の前にこの座席にすわっていた人を見覚えありませんか? 一体誰がこれを網棚に乗せたのですか?」
周りの乗客は無言でお互いを不安げに見つめ合っていた。警官は言った。
「次の停車駅で下りて、署までご同行下さい」
美喜はとうとう勘忍袋を切らして、こう叫んだ。
「車内で医者を直ちに探して下さい。医者が調べれば、私が2、3日前に出産したかどうか、すぐ分かりますよ。今ここで裸になりましょう!」
衣服を脱ぎ始めた美喜をみて、警官がどうすべきか途方にくれているのをみて、車内の隅に座っていたゴマ塩頭の老人が徐ろに、美喜に助け舟を出してくれた。
「確か、少し前にある若い女性がその紫色の包みをもって乗車してきた後、名古屋駅で下車する前に、私の脇をまた通り過ぎていきましたよ」
その老人のおかげで、美喜はやっと放免され、警官は次の駅で、その包みをもって下車した。
その瞬間、美喜には、この事件が「神からの暗示/啓示」であるかのように感じた。 こうして、彼女は以後、戦争で失った我が子「ステファン」代わりに  ( 2千人にもおよぶ)「混血孤児」の母親代りを務める決心をした。 「クリスチャン」である美喜の目には、不思議な老人の姿がまるで「キリストの再来」であるかのように写ったのかも知れない。。。 あるいは、彼女が戦前 (1930年代初め) 英国のロンドンに住んでいた頃に、訪れた深い森に囲まれたジョン=バーナルド博士(児童心理学者で、英国人とスペイン人の混血)の経営する孤児院「希望の家」で見た美しい夕日を不意に思い出したからかもしれない。。。

生き残った3人の我が子は既に成長して、もはや母親の手を必要としなくなっていた。他方、無意味な太平洋戦争で息子を失った夫は戦後一時、外交官としてのプライドをひどく傷つけられノイローゼ気味になり(無力感にさいなまれ)、美喜はしばらく夫と別居状態を続けざるを得なかったので、妻の役割ももはや余り必要なくなっていた。今や美喜自身の生涯に相応しい「天職」を全うするチャンスがやってきた。問題は混血孤児たちを収容すべき施設をいかにして確保するかであった。そこで、美喜は父親(久弥)に相談を持ち掛けた。残念ながら(美喜が当てにしていた)大磯にある岩崎家の別荘は戦後、税金の一部として駐留軍 (GHQ) に接収されていることが判明した。そこで、それを買い戻す資金(当時の地価で4億円)を集める募金活動に昼夜を徹して、美喜は奮闘した。金の心配をする必要のない半世紀を過ごしてきた「箱入り娘」には、これは特に難題だった。結局、美喜は2億円を寄付金で集め、残り2億円を(父親の顔で)三菱銀行から(担保なしで)借金することに成功した。

こうして、混血孤児のための寄宿舎兼学校「エリザベス=サンダース ホーム」が1948年に誕生した。 そして、、澤田夫妻は学校のチャペル(礼拝堂)を、戦死した息子を記念して 「ステファン=チャペル」 と命名した。 従って、その丁度半世紀後 (1998年) に「セイヤーみどり」女史が琉球大学の近くに建てた「Amerasian School」は、「エリザベス=サンダース ホーム」の沖縄版に当たるわけである。

美喜は父親(久弥)が他界して間もなく(1962年)に、父親からの遺産の一部を利用して、ブラジルのアマゾン密林地帯(トメアク)に「胡椒のプランテーション」を自ら開拓して、そこに混血孤児(少年)の一部を移民させるために、「アマゾン学級」を「エリザベス=サンダース ホーム」内に作って、ラテン語(ポルトガル語やスペイン語)を自ら教えた。 その理由は、インカ民族とスペイン人(あるいはポルトガル人)の "混血の国" ブラジルには日本からの移民が多いが、ここでは日本と違って人種差別が全くないので、混血孤児たちには"暮らし易い土地"(天国)であるからである。 実は、美喜は簾三と結婚後間もなく(1920年代初期)、夫がアルゼンチンの首都ブエノスアイレスの日本大使館勤務になったので、ラテン語を流暢に話せるチャンスができたのである。 夫妻の長男(信一)はブエノスアイレスの病院で誕生した。 

 落語のネタになるような面白いエピソードもある。夫妻がブエノスアイレスに滞在していた戦前の時代には、外交官の間の公用語は「フランス語」だった。そこで、簾三は地元のスペイン語をがんとして学ぼうとしなかった。彼の洗練されたフランス語が乱れる(?)からというのが言い訳だった。そこで、蛇口やガスなどが故障した場合、修理を依頼するのは、いつも美喜の役目だった。 修理工が帰るまで、簾三は来客との会話を避けるために、トイレにじっと隠れていたそうである。 万が一、来客がトイレを使用したくなったら、簾三は一体どうするのだろうか? 

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