人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
For detail, click the above image.

2008年6月22日日曜日

エレノア・ルーズベルト(1884ー1962)

米国史上、最も活躍した大統領夫人として、世界的に有名なエレノア・ルーズベルト (FDR夫人)は、(車椅子に支えられながら) ニューヨーク州知事や4期にわたる米国大統領という史上稀れな激務をこなす夫の陰日向となって、内外の難問題 (大恐慌や第二次世界大戦) の解決に尽力し、更に夫の急死 (大往生) 後まもなく、戦後処理の重要な使命を果たすために、米国の国連代表として、「世界人権宣言」の草稿にも献身している。セオドア・ルーズベルト大統領(1858ー1919)の姪で、もし仮に、彼女が男に生まれていたら、きっと大統領になっていただろうといわれている。

しかしながら、ルーズベルト夫人について、日本では余りに知られていない。彼女に関する伝記は、子供向けの本がたった一冊、十数年前に邦訳されているに過ぎない。成人向けの伝記は、英米では (自伝、評伝を含めて) 数冊出版されているのにもかかわらず、日本では一冊すら出版されていない。そこで、このブログを利用して、ルーズベルト夫人のユニークな生い立ちや苦悩、さらに歴史に残る数々の功績や特記すべき活動について、端的に紹介してみたいと思う。

生い立ち
ニューヨークで、エリオット・ルーズベルト夫妻の間に生まれる。父はアルコール中毒患者, 母は冷酷だった。両親とも大富豪の名門で、金銭的には恵まれていたが、家庭環境は酷かった。両親と早く死別したため、祖母(セオドア・ルーズベルト大統領の母)に養育される。その後英国の女学校に入学。そこで、教師かつフェミニストとして有名なマリー・スーベストゥール女史の進歩的な考えに大きな影響を受ける。帰国後ニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、初めて貧困の現状を目にし、大きな衝撃を受ける。この体験が、生涯「人権」のために働く彼女の原動力になった。

結婚後
1905年に遠縁に当たるフランクリン・ルーズベルト(FDR)と結婚し、五男一女の子供をもうけた。内気な性格のエレノアは当初、子供の教育に熱心な主婦に過ぎなかったが、夫の政界入りに伴い、彼女もニューヨーク州民主党婦人部長をつとめたことがきっかけで、家庭の外でも活躍し始めた。

1918年に、夫婦の結婚に「危機」が訪れた。エレノアが秘書ルーシー・ラザフォードと夫との不倫を知ったからだ。しかしながら、夫が過ちを認めたので、彼女はそれを許すことにした。

1921年に、FDRは生涯最大の危機が迎えた。突然「小児麻痺」の発作に襲われた。FDRが政治活動を断念しようとしたとき、彼女は「あなたにとって、政治こそが精神的に立ち直るための鍵です」と夫を励ましつつ、FDRが政界へ復帰する原動力となった。

1928年に、FDRは民主党からニューヨーク州知事に当選し、ようやく念願の政界復帰を果たす。その翌年、世界中に大恐慌が訪れ、不景気のため大量の失業者が全国の街角に氾濫し始めた。。

ファースト・レディー
1932年に、FDRがみごとに大統領に当選し、米国史上初の「車椅子」の大統領が誕生した。以後ホワイトハウス時代12年間、エレノアは夫の政策、特に有名な「ニューディール政策」(大恐慌から立ち直るための「TVA」に代表される大々的な失業者救済策)に対して、極めて大きな影響を与えた。ルーズベルト政権が打ち出した女性や黒人などのマイノリティに関する進歩的政策の大部分が、エレノア自身の発案によるものだった。例えば、フランシス・パーキンス女史を史上初の女性閣僚(しかも最も重責な労働長官)に起用した。更に、友人のノーベル賞作家で「東西文化の架け橋」を務めるパール・バック女史(1892ー1973)に啓蒙されて、エレノアは戦争中、ルーズベルト政権による日系アメリカ人たちを強制収容する差別政策に強く反対した。

戦後の「第二の人生」
ヨーロッパ戦線が終戦する直前 (1945年4月に) FDRが急死。悲しみのうちに、彼女は家族と共にニューヨーク州ハイドパークの私邸で静かな余生を送るつもりだった。しかしながら、夫の跡を受け継いだトルーマン大統領の要請で、国連の第1回総会代表団の一員に指名される。1946年にロンドンの総会で「人権委員会」の長に選出され、「世界人権宣言」の起草に着手し、1948年には、それが国連総会で採択された。

また、1952年までアメリカの国連代表をつとめた。退任後1953年からは各国の女性団体に招聘され、女性の地位向上に八面六臂の活躍をした。政治的には伝統的な民主党リベラル派に近い位置にあり、黒人問題では極めて大胆であった。ジョセフ・マッカーシー議員による「赤狩り」にも強く反対した。1956年の大統領選挙では、民主党候補のアドレー・スティーブンソンを支持した。

エレノアの業績は多岐に渡る。最も活動的なファースト・レディ、人権活動家、新聞のコラムニスト、世界人権宣言の起草者など。しかし彼女の最大の業績は、「人権擁護の象徴であること」だろう。彼女は進歩的アメリカのシンボルとして、現在でも米国内ばかりではく、世界中の人々の尊敬と崇拝の的になっている。

続く

0 件のコメント: