人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2008年6月2日月曜日

男女間の「知的な愛」(Philos)

ギリシャ語の愛には、フィロス(知的な愛、あるいは友情)、エロス(男女間の官能的な愛)、アガペー(無償の愛)と呼ばれる3種類の愛があり、(キリスト教の) 神の愛は、このうち最高の愛「アガペー」(Agape) に属するそうだ。人間の愛の中には稀に、アガベーに近い崇高な「博愛」というのもあるようだが、我々凡人の愛は主に、知あるいは官能という「見返り」を相互に期待した、ある意味で「自己本位」の愛に過ぎないようだ。愛が一方的になると、最後に破綻が訪れる。

ロダン(1840ー1917)の「接吻」(大理石像、1898年) は、エロス(Eros) を象徴した不朽の名作である。もう一つ「アガペー」に近い人類(あるいは生物全体)の愛がある。「母性愛」という愛し方である。自分の産んだ(ある意味で「自分の分身」である)子供のみに注がれる母親の愛である。これは多くの場合、他人の子供へまでおよばないので、母親の自己愛(ある意味で「排他的な」愛)のジャンルに属すると言えよう。

例外は、ミケランジェロ(1475ー1564)の不朽の名作「ピエタ」(大理石像、1500年)に象徴される聖母マリアの愛である。人類の原罪を償うために、我々にかわって十字架につけられる運命にある息子イエス・キリストを、神の御告げに従って産み育て、最後に十字架の上で死んでしまった息子の亡骸を、悲しく抱きかかえる姿である。これは、母性愛が「博愛」のレベルにまで昇華したごく稀な例(アガペー伝説)である。

さて、ここで話題にしたいのは、「フィロス」(Philos) に属する微妙な男女間の知的な愛についてである。フィロスを象徴する有名な男女(彫刻)像の具体的な例を残念ながら、私はまだ知らない。しかしながら、1895年に撮影されたキュリー夫妻の写真は、知的な男女の愛を象徴する代表的な作品と言えよう。

ポーランドのワルシャワ生まれの学生マリー(1867ー1934)はパリのソルボンヌ大学で物理学を学ぶうちに、物理学者ピエール・キュリー(1859ー1906)の研究室に弟子入りするチャンスを偶々つかみ、やがて互いに意気投合し、この年、師弟関係を越えて一生の伴侶として、職場(研究)と家庭を共に分かち合う誓いを立てる。その後昼夜を徹する情熱的な研究の末、3年後に有名な「ラジウム」の発見を果たし、1903年にはノーベル物理学賞を夫婦で分かち合う。

長女イレーナ(1897ー1956)も両親の築き上げた伝統を継ぎ、母親の弟子フレッド・ジョリオ(1900ー1958)を一生の伴侶として選び、1933年に史上最初の人工放射性元素を夫婦で発見し、翌々年にはノーベル化学賞を分かち合う。この「知的な愛」の伝統は、更に孫の代にも受け継がれ、ジョリオ・キューリー夫妻の長男ピエールは、同僚のアンと結ばれ、現在でもパリの研究室で、植物の光合成のメカニズムに関する研究を夫妻で続けている。

19世紀末期のパリに芽生えたこの素晴らしい伝統はその後、世界中に広まり、物理学や学問の分野のみならず、あらゆる分野で、今日の「男女共生」運動の原動力になった。

しかしながら、極めて稀れながら、この男女間のフィロスが世界に悲劇的な結果をもたらしたケースがあった。それは第2次世界大戦が勃発する直前に起こった出来事だった。ドイツの首都ベルリンに「カイザー・ウイルヘルム研究所」(KWI)という世界の物理や化学の分野を当時リードしていた国立研究所があった(戦後、「マックス・プランク研究所」と改称される)。この研究所は、それまでにアルバート・アインシュタインやマックス・プランクなど数々の優秀な科学者を生み出してきた。さて、ウイーン生まれのリーゼ・マイトナー(1878ー1968)が1905年にウイーン大学で物理学の博士号を取得後、キュリー夫妻のラジウム研究に憧れて、1907年にマリー・キューリーの弟子になりたいと申し出たが、何故か断わられた。それは、ピエール・キューリーの悲惨な事故死の直後だった。

りーぜはしかたなく、ベルリンのKWIにある化学者オットー・ハーン(1879ー1968)の研究室に助手として働くことになった。以来とても気の合った同僚として、数々の原子物理学に関する共同研究を30年間にわたり続けた。ところが、1933年にヒットラーが政権を獲得し、ユダヤ人迫害を開始するや、実はユダヤ人であるリーゼは、教師や助教授の称号を剥奪され、更に1938年に故国オーストリアがドイツに併合されるや、スエーデンに亡命せざるをえなくなった。こうして、彼らの長年にわたる共同研究に終止符が打れたが、その直後に、オットーとその同僚が、極めて奇妙な現象を発見した。ウランに中性子をぶつけると、反応生成物の中にバリウムが存在するという分析結果だった。

オットーがその結果を論文にして、科学雑誌に投稿直後、リーゼに論文のコピーを送った。その論文を読むや、彼女はその反応が「ウランの核分裂」であることを直感した。そして、その核分裂の結果、膨大なエネルギーが放出されることを算出して、英国の有名な雑誌「ネイチャー」に核分裂と題する論文を発表した(皮肉にも、オットー自身はまだ、それが核分裂であることに気づいていなかった)。以来、彼女の論文に基づいて、ヒットラー政権と米国政府との間に、史上初の「原子爆弾」開発をめざす壮烈な競争が始まった。その結果は、今日誰もが知るところである。ドイツは戦争にも核開発競争にも敗れ、米国が降服寸前の日本に原爆を2発も投下して、広島と長崎にあの悲劇をもたらした。

もし仮に、オットーがリーゼに投稿論文のコピーを送らなかったら、あるいはヒットラーがドイツに台頭しなかったら、米国でそんなに早く原子爆弾は開発されなかっただろう。皮肉にも、1944年にノーベル化学賞をもらったのは、史上初の核分裂を起こした実験者のオットーだけで、それが核分裂であることを初めて指摘した理論家のリーゼではなかった。ヒットラー政権下で、核爆弾開発研究に従事したオットーと、それに終始反対したリーゼとの間に、戦後、当然ながら不和が生じた。情熱的なフィロスに終焉が訪れた。 「ヒューマニズム」という問題で、両者の間にはっきりとした温度差が生じたからだ。

続く

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