人々の “健康促進” のために!

人々の “健康促進” のために!
2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2016年2月9日火曜日

高峰譲吉: 「特許制度」 を駆使した日本人初の科学的発明家 (三共や理研の創始者)

明治時代に米国へ渡って活躍した日本人の科学者で特に有名なのは、野口英世と高峰譲吉であるが、実際の科学的成果 (業績) は、高峰譲吉の方がずっと上であるが、日本ではどういうわけか (「修身の教科書」向けに)、野口英世の生涯がひどく美化されて、日本の紙幣 (千円札) にまで登場している。 そこで、後世に役立つ (「アドレナリン」や「タカジャスターゼ」など) 数々の地道な発見や発明をした高峰譲吉と、その研究を支えた妻キャロリンやその両親 (特に母親マリー=ヒッチ) を取り上げて、ここで紹介したい。 NHKの朝ドラ「マッサン」物語の言わば「科学者」版である。 「ニッカウイスキー」の代わりに製薬会社「三共」を創業する。

譲吉が 越中 (富山) の蘭学医者の家で生まれたのは、米国の黒船が初めて江戸に姿を現わした直後であった。応用化学が好きな譲吉は今の東大工学部の前身で勉強した後、英国のグラスゴー大学に留学し、欧米の最先端の科学技術を見聞してきた。 帰国後、農商務省に勤務し始めた。 その後、1884年に米国のニューオーリンズで、万国博覧会が開催された折、政府の代表として、博覧会に参加するため渡米した折、運命の出会いに恵まれる将来の妻になるキャロリンの両親 (ヒッチ家) が開催した晩餐会に招待された。そこで、特に先見の銘があった母親マリーの音頭で、譲吉(30) がキャロリン(18) と婚約

3年後に結婚する約束で、譲吉は日本に帰国するが、その時、欧米の「特許」制度を初めて日本に持ち帰り、"特許庁" の高官 (副官) に就任する。   1887年にニューオーリンズで結婚式を挙げ、新婚夫婦で日本に帰国し、深川「釜屋堀」(現在の江東区大島一丁目) に居を構える。ここで、渋沢栄一らの投資家と共に、まず「東京人造肥料KK」を創業する。人造肥料の生産のかたわら、日本酒醸造の改良にも乗り出す。その過程で、麦コウジの発酵能力の方が海外のイーストよりもずっと高いことを発見して、早速 (麦から元コウジを作る)「 特許」を申請する。この特許が間もなく譲吉の運命を一転させる。 間もなく、キャロリンが異国日本で、2人の息子 (ジョーとエーベン) を出産する。 1890年に米国の両親から、意外な手紙が届く。「麦のふすまから作る発酵素を使ってウイスキーを製造したい」というウイスキートラストが見つかり、特許ライセンス (使用権) の売買交渉を申し出てきたという。恐らく、社交家の母親マリーが譲吉夫婦のために、地元でひと肌脱いでくれたらしい。   

早速、譲吉親子4人は、日本醸造家の藤木幸助を同伴して、シカゴへ向かった。 シカゴ郊外「ピオリア」は全米一を誇るウイスキー製造会社が集まる団地として知られている。 ピオリア醸造界の大ボスで、「ウルナー醸造」の社長が高峰式元コウジ改良法の特許使用権を快く買い取った。 喜んだのは束の間、間もなく、譲吉に危機が到来 (醸造工場が不審火で全焼!)。しかしながら、譲吉は妻キャロリンの機転で、命拾い。再起して、4年後には、消化酵素「タカジャスターゼ」の本格的な製造を開始し、(日本国内での) 販売のため、1899年に製薬会社「三共」の前身である「三共商店」を創設 (初代社長)。1901年には副腎ホルモンである「アドレナリン」の抽出/結晶化にも成功して、薬学博士を取得する (「ジャスターゼ」開発の際も、工学博士を取得)。アドレナリン及びタカジャスターゼの(海外での) の専売権は、自分が大株主である米国の製薬会社「パーク=デービス」 に移譲*。1917年には、「理研」を創設1920に心臓病悪化のため静養、2年後に、68年に渡る (科学者かつ実業家としての) 波乱万丈な生涯を閉じる

なお、譲吉の死後、キャロリン (59) は夫が残した遺産 (現在の価値で六兆円以上) の一部で、アリゾナ州の砂漠に牧場を買い、チャーリー=ビーチというハンサムなカウボーイ (36) と再婚して、新しい人生を楽しむ。 驚くなかれ、チャーリーは次男エーベンの友人。キャロリンは結局、譲吉と30年、チャーリーと30年、それぞれ冒険に溢れる結婚生活を楽しみ、88歳で他界。

*数年前の経済不況後、世界中で銀行や製薬会社などの合併が続出、三共は第一製薬と吸収合併、「パーク=デービス」も米国の大手製薬会社「ファイザー」に吸収された。

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