人々の “健康促進” のために!

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2015年春、沖縄の琉球大学キャンパス内 (産学共同研究棟) に立ち上げた “PAK研究センター” の発足メンバー(左から4人目が、所長の多和田真吉名誉教授)
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2016年1月13日水曜日

2人の "ノーベル賞" 科学者の友情物語: エーリッヒ と ベーリング

1880年頃、ベルリンにあるロベルト=コッホ伝染病研究所勤務の科学者エミール=フォン=ベーリング博士が、ある日、ベルリン大学病院の伝染病棟を訪れた。ある伝染病患者から得た培養液を実験室に受取りに来たのだ。ところが、その時には係のものが不在で、代わりにパウル=エーリッヒ博士が何やら実験中だった。 インキュベーターから培養液を受け取ったあと、帰りがけに、ベーリングはエーリッヒに「一体何を研究しているのか」と尋ねた。 エーリッヒは「ミミズにメチ
レンブルーを注射して、それが脳だけを特異的に染色する不思議な現象
を観察中」 と得意気に答えた。 脇にあった顕微鏡を覗いてみると、ミミズの脳だけがブルーに染まっていた。 実はその当時、ベーリングのボスであるコッホは結核の病原菌を同定しようと苦心していた、「もし、結核菌を特異的に染める方法が見つかれば、臨床上画期的な発見になるだろう」 とエーリッヒに説明した。

1882年に、コッホは結核菌の分離に成功し、その発表講演会へベーリングが個人的にエーリッヒを招待した。 これが2人の研究者の長い友情の始まりになった。実は、2人共、1854年生まれの同輩だった。 講演会が終わった時、エーリッヒはコッホから結核菌の培養液をもらい、大学病院を辞めて、自宅に建てた実験室で、結核菌の染色法を開発し始めた。数カ月後のある冬の日、ベーリングが久しぶりに彼の実験室を訪ねてきた。 ところが、エーリッヒはコンコン咳をしていた。 風邪かと思ったが、実はそうでなかった! その日、ある偶然が重なって(奥さんによる「怪我の功名」のおかげで)、エーリッヒはついに結核菌の染色に成功した。ベーリングは親友の健康を気づかって、「その染色法で、君のたんを染色してみたまえ」と促した。 果たせるかな、そのたんに結核菌が染色されていた! そこで、ベーリングはコッホにその成功(染色法)を報告すると共に、結核に感染してしまったエーリッヒを静養のため、奥さんと共に暖かいエジプトへ送った。

幸い、数カ月後に肺結核から解放され、ベルリンに戻ってきたエーリッヒは、コッホ研究所で働くことになった。 以後、ベーリングと共同で、ジフテリアの抗毒素(馬の抗血清)を開発して、当時世界中に蔓延していた小児ジフテリアの治療に成功した。ベーリングは、その功績で1901年に最初のノーベル医学賞をもらう。 エーリッヒも1908年に彼の免疫理論(側鎖説)に対して、ノーベル医学賞をもらう。 更に1909年に、エーリッヒは秦佐八郎と共に、梅毒の特効薬「サルバルサン」(化合物606)を開発して、「化学療法の父」と呼ばれるようになる。サルバルサンがいわゆる「魔法の弾丸」と呼ばれる由縁は、次の通りである。梅毒の病原菌「スピロヘータ」に特異的に結合するアニリン色素を同定し、それに「毒性のヒソ化合物」を付加した誘導体がサルバルサンとなった。 組織染色法の天才 「エーリッヒ」 ならではの名案である。

以後も2人の友情は続き、「サルバルサン」臨床テストが開始した頃、大量生産に伴う製品不良の結果、副作用(ヒソ中毒)が発生したことから、裁判ざたになった時にも、ベーリングはエーリッヒの「サルバルサン療法」を弁護するために、証人台に立ったという有名な逸話がある。2004年に、"2人の友情" と "生誕150周年" を記念して、ドイツで記念切手が発売された。  

なお、前述した小説「ドクター=アロースミス」に登場する細菌学の大家 「ゴットリーブ」のモデルになった実在人物は、ドキュメンタリー「微生物の狩人」に収録されているルイ=パスツール、ロベルト=コッホ、パウル=エーリッヒなどである。   

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